待望の赤ちゃんが産まれたのは、窓の外の満開の桜の花びらが、まるで赤ちゃんの誕生を祝ってくれているかのように、真っ青な空の下で風に乗っては幾重にも舞っている春の日のことでした。
私たちは、何とか難関をくぐり抜け我が家にやって来てくれたこの天使に“マイ”と名付けました。
私がこの天使とはれて我が家に帰ってきたのは、ドラマのようなあの出産騒動から1ヶ月近くたった日のことでした。
17年前の当時は、開腹手術の縫合に使われる糸が今よりもまだとても太く (今では縫合に糸を使わずホッチキスのようなもので傷口を塞ぐそうですが)、更に私の体は異物を拒否してしまう体質だそうで、溶けるはずの子宮を縫い合わせた糸が、その皮膚を縫合した糸口から全て出てきてしまったために、お腹にできた名誉の傷がいつまで経っても化膿して、当時の帝王切開の通常入院期間であった2週間をはるかに越えての退院となってしまいました。
まったく出産だけでも大変だったのに、その後までいろいろと問題が出て、出産とはかくのようにも困難なものかと思ったものでした。
さて、我が家に帰ってからは、出産経験のあるご婦人なら誰もが体験しているあのてんてこ舞いの日々が始まりました。
3時間置きの授乳にオムツ交換、家事と育児で眠ることさえ儘ならない日々です。
当時は紙オムツの出始めで、現在のように種類も無く、また性能も良くなかったために、私はベビー○ンネという布製のオムツを使用していましたから、その洗濯にも追われる毎日でした。
でも、そんな大変なことも我が子を育てているという充実感に勝るものではありませんでした。
特に授乳の時の、自分の乳房を赤ちゃんの口に含ませるあの幸福感といったら、あの時ほど女性に生まれたことを感謝したことがないほどでした。
ただ、彼女は本当におっぱいが好きな赤ちゃんでしたので、お腹がいっぱいになって眠っていても、私がその口から乳房を離そうとすると慌てて目を覚まし、また口に含む…の繰り返しで、いつまでもベッドに移すことが出来ませんでした。
いつも口に乳首を含んだまま私の腕の中で眠り、ぐっすりと眠り込んで自然と口から乳首が離れない限り彼女を抱き下ろすことは不可能でした。
そのため授乳に掛かる時間は大抵2時間を要し、やっとベッドに移しても小一時間もすると次の授乳のために泣き始める…といった状態でした。
人工乳にすれば、少しは楽になるかと試してみましたが、彼女はまったくそれを飲もうとはしませんでした。
哺乳瓶や乳首が合わないのかと思い、国内外を問わずありとあらゆるメーカーの商品を取り寄せましたが、どれ一つとして彼女が受け入れたものは無く、口に入れた途端器用に舌でそのゴム製の乳首を押し出し、おっぱいが欲しいと大泣きする有様でした。
私も授乳の時の母親としての実感に喜びを感じていたので、そんなにおっぱいが好きなら母乳だけでもいいかと、授乳後の搾乳も念入りに行い、常に新しい母乳を与えられるようにと努力していました。
そのため授乳に2時間、搾乳に30分、やっと乳房を自分の服の中に納めても食事を摂ることがやっとで、しばらく休もうと横になる頃にはもう泣き出す始末でした。
何だかこの頃はいつもおっぱいを与えていたような印象しかなく、ホントに今思っても「よくやったなぁ。」と自分を褒めたくなってしまいます。
ただ、夫もとても協力的で、彼が在宅中で私が彼女に関わらなければならない時は、炊事、洗濯、掃除と嫌な顔一つせずにやってくれましたから、何とか育児ノイローゼにもならずに済んだのだと思います。
そんな毎日を繰り返しながらも、1ヶ月検診、3ヶ月検診ともに問題なしと判定されて順調に成長し、6ヶ月検診を受ける時がやって来ました。
断乳の準備と離乳食の説明を受けた私は、たくさんの離乳食の献立の本や調理器具などを買い込み、りんごのジュースから南京の裏ごし、ほうれん草のスープなどなど張り切って調理に臨んだのですが、哺乳瓶の時と同様全て口から押し出して、最後にはおっぱいをくれと泣き叫びました。
どんなに調理法を変えようと食材を変えようとスープの一滴すら飲んではくれませんでした。
ある時、離乳食を食べるまで母乳を与えないで彼女と根くらべもしましたが、泣き疲れて眠ってしまって目が覚めた後でも離乳食は拒否し、半日も飲まず食わずで泣き続けている彼女に、私は母乳を与えざるを得ませんでした。
結局彼女は、1歳になるまで何一つ固形のものは口にせず、母乳だけで過ごすことになってしまったのです。
彼女の生命を保つための母乳を涸らさないために念入りに搾乳を続けたお陰か、彼女が1歳になっても私の乳房からはまだ溢れる様に白い彼女の命の源が湧き出してくれました。
ところが1歳を過ぎたある日、彼女が突然うどんを食べたのです。私と夫は驚嘆とも絶叫とも言えぬ喜びの声を思わず上げました。
これで何でも食べ出してくれるのでは…と私たちが抱いた淡い期待は、しかしもろくも打ち砕かれることになってしまいました。彼女が口にするのはうどんだけで、他のものはやはり口から全て押し出したのでした。
それから1歳半頃までうどんと母乳だけという食生活を続けていた彼女は、1歳検診までは何とか許容範囲だった体重も、1歳半検診では月例基準の最低ラインを割るほどになってしまいました。
私の母乳の栄養の限界が来たのです。
1歳頃まではその白さを保っていた母乳も、この頃には日ごとに白さが薄れていき、やがては米のとぎ汁ほどの薄さになっていました。
もう母乳を与え続けることすらできず、どうしたらいいのかと苦悩していると、それから間もなくして、彼女は何事も無かったかのように離乳食ではなく普通食を食べ始めたのです。
食の量はあまり多くはありませんでしたが、それでも日ごとに食べられるものが増えていきました。
私たちは、やっと暗いトンネルから抜け出せたような気持ちになりました。
しかし、その時は全く想像もしませんでしたが、後に考えるとこれが彼女の障碍を思わせる最初の出来事だったのです。
|