障碍を持って生まれてきたマイちゃんとのこれまで

COLUMN

天使の足跡
マイちゃんとともに…

誕生
 マイちゃんが産まれたのは昭和63年(1988年)の4月でした。
 初めての出産で不安と期待を胸に出産予定日の朝、妊娠が判ってから定期検診を受けていた小さな病院に入院しました。
 2日経っても陣痛が来ないので、当時はどこの産科でも頻繁に使用されていた陣痛促進剤を点滴注射することになりました。
 点滴が始まってしばらくすると、とてもお腹が痛くなり、これが陣痛なのかとその痛みの苦しさとこの痛みを越えればかわいい我が子が産まれるという希望の入り混じった気持ちでその痛みと闘っていました。
 母や夫に背中をさすられながら夜中近くまでその痛みに耐えていましたが、全く産まれる様子もなく、「明日また頑張りましょう」と医師から言われ点滴をはずすと、何事も無かったかのように痛みが消えていきました。自身の陣痛は促進剤によっても起きてはいなかったのです。
 翌朝、再び陣痛促進剤の点滴がはじまるとともにあの耐え難い痛みが襲ってきました。「今日こそ…」という思いだけでひたすらその痛みに耐え続けていました。
 朝一番で子宮口を柔らかくする注射を打ちましたが、昼を過ぎても子宮口の開く様子もないことから、“ラミナリア”という海綿からできた子宮口を広げる器具 (棒の先に海綿を巻きつけたものを子宮内に挿入することにより、羊水を吸って大きくなる海綿が子宮口を広げていく装置) を子宮に挿入しました。しかし、私の子宮口は広がるどころかそのラミナリアに喰い込んで抜くことも困難になるほどでした。
 ラミナリアを挿入するときも抜くときも、その痛さはこの世のものとは思えないほどで、さらに陣痛促進剤の点滴は継続されていたため、私の全神経は下腹部に集中されて失神寸前の状態でした。
 やっとのことでラミナリアを抜くと、医師は「こんなに固い子宮口の人は経験したことがないわ。」と半ば呆れたように呟きました。
 その後も促進剤の痛みと闘い続けていたのですが、しばらくしてお尻から太腿のあたりに生温かいものを感じました。
 破水でした。
 医師が内診をしてもやはり子宮口は開いておらず、お腹の痛みと闘いながらも無事に赤ちゃんは産まれるのだろうかと不安が心の中に広がっていった時、私の横で力強く規則的な響きをモニターから伝えていた赤ちゃんの心音がか細いものになり、やがてその音の間隔もどんどん遠いものになっていきました。
 医師たちが慌てて処置を始めた頃、私の血圧が心臓手術を受けた直後の人のそれのようにとても低くなってしまい、私はかろうじて意識を留めているような状態に陥っていました。
 朦朧とした意識の中で、ウーウーというサイレンの音が響き、私は救急車で最寄の市立病院へ搬送されました。
 病院からの連絡で駆けつけた父と夫がその病院の医師から説明を受け、母子ともに危険な状態であること、直ちに帝王切開手術で赤ちゃんを取り出さなければならないことを聞かされました。父も夫も迷うことなく私を助けてくれるように医師に懇願したそうです。
 しかし、手術室に運ばれる私は、「赤ちゃんを助けて下さい。」と傍らにいた看護士に哀願していました。
 今から思うとドラマさながらですが、まさに事実は小説より奇なりという感じです。
 やがて手術が始まり麻酔をかけられましたが、帝王切開術ではあまり多くの麻酔を使うと赤ちゃんまで眠ってしまうことから、他の手術より少量の麻酔で術式が行われます。そのため、ここでもお腹を切開するメスの痛みに耐えながらでしたが、もうすぐ待ちに待った我が子に会えるという思いだけでその痛みと闘っていました。
 やがて開いた私のお腹を、まるでニキビの芯を出すように医師が子宮を外側から押し出して赤ちゃんをとりあげました。
 けれど、当然のように聞こえるはずの元気な産声は聞こえてきませんでした。
 医師たちが赤ちゃんに慌しく処置を施している気配だけを伺って、私の不安が絶頂になった時、「オ、オギャー」という小さな弱々しい、けれども私の目の前を一変に明るくしてくれる天使の声が聞こえました。
 「赤ちゃんは大丈夫ですか?」蚊の鳴くような声で問う私に、周りの医師や看護士はほとんど麻酔が効いていないことに驚きながらも「大丈夫ですよ。」とだけ言うと麻酔の吸入器で私を眠らせました。
 やがて気が付くと病室にいた私は、傍らで心配そうに私をじっと見つめていた夫に「赤ちゃんは?」と聞きました。
 赤ちゃんは、出生後すぐに処置室に運ばれたそうで、夫もまだ抱くこともできていなかったのです。
 でも、赤ちゃんの顔は手術室から処置室に運ばれる時に看護士が見せてくれたそうで、一瞬の対面にも初めての我が子が産まれたという夫の喜びが伝わってきました。
 翌日、看護士が病室に赤ちゃんを連れて来てくれました。
 看護士から受け取って初めて抱いた我が子は、その小さな手で私の指を握り締め、透き通るような肌に力強い血潮の流れを携えて、安心しきった顔で私の腕の中にいました。
 これがマイちゃんとの初めての対面でした。
 どんなにか大変な苦しみの中で産まれてきてくれた赤ちゃんに愛おしさが込み上げ、どんなことをしてもこの小さな天使を守っていこうと決心しました。
 
更新日時:
2006.03.15 Wed.

乳児期
 待望の赤ちゃんが産まれたのは、窓の外の満開の桜の花びらが、まるで赤ちゃんの誕生を祝ってくれているかのように、真っ青な空の下で風に乗っては幾重にも舞っている春の日のことでした。
 私たちは、何とか難関をくぐり抜け我が家にやって来てくれたこの天使に“マイ”と名付けました。
 私がこの天使とはれて我が家に帰ってきたのは、ドラマのようなあの出産騒動から1ヶ月近くたった日のことでした。
 17年前の当時は、開腹手術の縫合に使われる糸が今よりもまだとても太く (今では縫合に糸を使わずホッチキスのようなもので傷口を塞ぐそうですが)、更に私の体は異物を拒否してしまう体質だそうで、溶けるはずの子宮を縫い合わせた糸が、その皮膚を縫合した糸口から全て出てきてしまったために、お腹にできた名誉の傷がいつまで経っても化膿して、当時の帝王切開の通常入院期間であった2週間をはるかに越えての退院となってしまいました。
 まったく出産だけでも大変だったのに、その後までいろいろと問題が出て、出産とはかくのようにも困難なものかと思ったものでした。
 さて、我が家に帰ってからは、出産経験のあるご婦人なら誰もが体験しているあのてんてこ舞いの日々が始まりました。
 3時間置きの授乳にオムツ交換、家事と育児で眠ることさえ儘ならない日々です。
 当時は紙オムツの出始めで、現在のように種類も無く、また性能も良くなかったために、私はベビー○ンネという布製のオムツを使用していましたから、その洗濯にも追われる毎日でした。
 でも、そんな大変なことも我が子を育てているという充実感に勝るものではありませんでした。
 特に授乳の時の、自分の乳房を赤ちゃんの口に含ませるあの幸福感といったら、あの時ほど女性に生まれたことを感謝したことがないほどでした。
 ただ、彼女は本当におっぱいが好きな赤ちゃんでしたので、お腹がいっぱいになって眠っていても、私がその口から乳房を離そうとすると慌てて目を覚まし、また口に含む…の繰り返しで、いつまでもベッドに移すことが出来ませんでした。
 いつも口に乳首を含んだまま私の腕の中で眠り、ぐっすりと眠り込んで自然と口から乳首が離れない限り彼女を抱き下ろすことは不可能でした。
 そのため授乳に掛かる時間は大抵2時間を要し、やっとベッドに移しても小一時間もすると次の授乳のために泣き始める…といった状態でした。
 人工乳にすれば、少しは楽になるかと試してみましたが、彼女はまったくそれを飲もうとはしませんでした。
 哺乳瓶や乳首が合わないのかと思い、国内外を問わずありとあらゆるメーカーの商品を取り寄せましたが、どれ一つとして彼女が受け入れたものは無く、口に入れた途端器用に舌でそのゴム製の乳首を押し出し、おっぱいが欲しいと大泣きする有様でした。
 私も授乳の時の母親としての実感に喜びを感じていたので、そんなにおっぱいが好きなら母乳だけでもいいかと、授乳後の搾乳も念入りに行い、常に新しい母乳を与えられるようにと努力していました。
 そのため授乳に2時間、搾乳に30分、やっと乳房を自分の服の中に納めても食事を摂ることがやっとで、しばらく休もうと横になる頃にはもう泣き出す始末でした。
 何だかこの頃はいつもおっぱいを与えていたような印象しかなく、ホントに今思っても「よくやったなぁ。」と自分を褒めたくなってしまいます。
 ただ、夫もとても協力的で、彼が在宅中で私が彼女に関わらなければならない時は、炊事、洗濯、掃除と嫌な顔一つせずにやってくれましたから、何とか育児ノイローゼにもならずに済んだのだと思います。
 
 そんな毎日を繰り返しながらも、1ヶ月検診、3ヶ月検診ともに問題なしと判定されて順調に成長し、6ヶ月検診を受ける時がやって来ました。
 断乳の準備と離乳食の説明を受けた私は、たくさんの離乳食の献立の本や調理器具などを買い込み、りんごのジュースから南京の裏ごし、ほうれん草のスープなどなど張り切って調理に臨んだのですが、哺乳瓶の時と同様全て口から押し出して、最後にはおっぱいをくれと泣き叫びました。
 どんなに調理法を変えようと食材を変えようとスープの一滴すら飲んではくれませんでした。
 ある時、離乳食を食べるまで母乳を与えないで彼女と根くらべもしましたが、泣き疲れて眠ってしまって目が覚めた後でも離乳食は拒否し、半日も飲まず食わずで泣き続けている彼女に、私は母乳を与えざるを得ませんでした。
 結局彼女は、1歳になるまで何一つ固形のものは口にせず、母乳だけで過ごすことになってしまったのです。
 彼女の生命を保つための母乳を涸らさないために念入りに搾乳を続けたお陰か、彼女が1歳になっても私の乳房からはまだ溢れる様に白い彼女の命の源が湧き出してくれました。
 
 ところが1歳を過ぎたある日、彼女が突然うどんを食べたのです。私と夫は驚嘆とも絶叫とも言えぬ喜びの声を思わず上げました。
 これで何でも食べ出してくれるのでは…と私たちが抱いた淡い期待は、しかしもろくも打ち砕かれることになってしまいました。彼女が口にするのはうどんだけで、他のものはやはり口から全て押し出したのでした。
 それから1歳半頃までうどんと母乳だけという食生活を続けていた彼女は、1歳検診までは何とか許容範囲だった体重も、1歳半検診では月例基準の最低ラインを割るほどになってしまいました。
 私の母乳の栄養の限界が来たのです。
 1歳頃まではその白さを保っていた母乳も、この頃には日ごとに白さが薄れていき、やがては米のとぎ汁ほどの薄さになっていました。
 もう母乳を与え続けることすらできず、どうしたらいいのかと苦悩していると、それから間もなくして、彼女は何事も無かったかのように離乳食ではなく普通食を食べ始めたのです。
 食の量はあまり多くはありませんでしたが、それでも日ごとに食べられるものが増えていきました。
 私たちは、やっと暗いトンネルから抜け出せたような気持ちになりました。
 
 しかし、その時は全く想像もしませんでしたが、後に考えるとこれが彼女の障碍を思わせる最初の出来事だったのです。
 
更新日時:
2006.03.15 Wed.

幼児期 1
 彼女が1歳になってうどんを食べ始めた頃、私の仕事復帰の時期が来ました。
 私は、高校の教師をしていました。産休・育休を合わせて1年も休暇を頂いたので、これ以上休むことはできなかったのです。
 半年前から保育所を探していましたが、「授乳期」で書いたとおり彼女は離乳食を食べない子供でしたから、保育所が決まるかどうか不安でした。
 しかし、幸い家から一番近い保育所に入所することが決まり、4月から入所することになりました。
 保育士の先生方は、彼女が離乳食を食べないと言う私の話を当初軽く考えていたようです。周りの子供も食べているのでそれに影響されるだろうし、何よりお腹が空けば食べるだろうと思っていたのでしょう。
 しかし、彼女は思いのほか強情で、離乳食は吐き出し、わずかに食べ始めたうどんのみしか受け付けませんでした。
 当然それでは栄養が足りません。なにせ私は仕事でいないので授乳することができませんから。
 初日のお迎えの時に、予想通り保育所の担任の先生と園長先生に呼ばれ、マイちゃんの食事をどうするか相談しました。
 彼女は保育所でも離乳食どころかやはり哺乳瓶も受け付けなかったそうで、先生が人工乳をスプーンで口に流し込んでくれたそうです。その人工乳もむせながらなので、用意された分の半分も飲めなかったそうですが…。
 彼女は、哺乳瓶だけでなく人工乳そのものも好きではなかったので、結局私の搾乳した母乳を冷凍して持って行き、その母乳を先生がスプーンで飲ませ、食事は給食を食べられるようになるまで根気よく試していって下さることになりました。
 彼女が1歳半頃には食事が摂れるようになったのは、本当にこの保育所の先生方の努力のお陰でした。
 
 さて、そんなマイちゃんの保育所での生活はというと、2歳になっても言葉が出ていなかったので、お友達とのコミュニケーションが上手く取れていませんでした。
 この頃彼女が話せたのは、「ママ」「マンマ」「バー」(おばあちゃん)でした。
 まあ、今でも他人が聞いても明確に分かる言葉というと、これに「マイ」「パパ」「アヤ」「ジー」(おじいちゃん)「ターちゃん」(おばあちゃんの妹)「カッちゃん」(ママの弟)「マリ」(義妹)「マー」(マーくん)「シー」(シーちゃん)と家族の名前くらいですけど…。
 ですから、彼女は「アーアー」と言いながら、それでも友達や先生との関わりを求めていきました。
 彼女はとにかく人が大好きなのです。
 言葉だけではありません。2歳のお誕生日を迎えても彼女は歩くどころか立つことさえ出来ていませんでした。
 後に振り返ると、これらが彼女の障碍を思わせる2つ目の出来事でした。
 1歳半検診でも医師に相談したのですが、当時は知的障碍の専門医は少なく (医学界で知的障碍の知識が一般の医師にも浸透してきたのは、ここ10年くらいの間です) 彼女を診察した医師も専門知識がなかったようで、足や脳のレントゲン、脳波、CTと一通りの検査後「お母さん心配しすぎですよ。骨にも脳にも何も異常がないので大丈夫ですよ。発育は個人差があるので、早い子もいれば遅い子もいます。もうすぐしたら食事も摂って言葉も話して歩くようになりますよ。」と私に告げました。
 医師にはそう言われたものの、それ以降もハイハイばかりで立つ気配すらない彼女に、“もうこのまま歩くことは出来ないのだろうか?”と不安が心を満たし始めた頃、2歳のお誕生日からしばらくして、つかまり立ちさえしなかった彼女が突然立ち上がりトコトコと4〜5歩歩いたのです。
 ちょうど私の実家にいた時で、私の父も母も、仏壇に向かって歩いてそのまま仏壇につかまって立っているマイちゃんに狂喜乱舞しました。
 母なんて、仏壇に向かって歩いたせいか、「ご先祖様が守ってくれてるのよ。」と泣き出す始末でした。
 
 さて、ようやく歩き始めたマイちゃんですが、言葉は相変わらず出ませんでした。
 2歳を過ぎる頃と言うのは、周りのお友達の語彙が急に増え始める頃ですから、その差は広がるばかりでした。
 この頃から、私が仕事で遅いときには彼女を迎えに行ってくれていた私の母は、よく私に泣いて愚痴をこぼしていました。
 言葉を話せない彼女は、お友達からのけものにされ、よく一人で砂場で遊んでいました。でも決して一人が好きなわけではなく、むしろ人が大好きな彼女は、砂場に来たお友達に声を掛けようとするのですが、2歳を過ぎても話すことが出来ず、「アーアー」としか言えない彼女に、お友達は気味悪がって逃げてしまったり無視したりしていました。
 また、先生に関わりを求めようと、歩き始めたばかりの足で先生の傍らに行き話しかけようとするのですが、ここでも「アーアー」としかいえないマイちゃんの声は先生に届かないのか、後から来たお友達が「先生!!…」と話しかけると先生はそちらの対応が先で、彼女は「アーアー」と言い続けながらそのお友達と先生の会話の横で、先生が自分を見てくれるのを待ち続けていました。
 母は、「どうしてお友達は話せなくても一緒に遊んではくれないのかしら?」「どうして先生はマイちゃんが先に寄って行ってるのに気付いてやってはくれないのかしら?」と泣きました。
 私も心で泣きました。でも表立って泣くとマイちゃんが余計に哀れに思えて泣きませんでした。まだこの頃は、医師に言われたように“もうすぐ話せるようになる”と信じていたからかも知れません。
  
更新日時:
2006.03.15 Wed.

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Last updated: 2006/4/18

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