障碍を持って生まれてきたマイちゃんとのこれまで

COLUMN

天使の足跡
マイちゃんとともに…

幼児期 2
 相変わらず1人で遊ぶことの多い保育所生活が続いていましたが、それでも1年2年と経つうちに、お友達にとっても“話すことが出来ないマイちゃんもクラスにいる子”というマイちゃんの存在を認めてくれている風な感じが時々見受けられるようになって来ました。
 長く保育所にいるせいなのか、周りのお友達の精神面がそれだけ成長したからなのか分かりませんが、何はともあれ彼女なりに保育所生活を楽しんでいるようでした。
 人が大好きな彼女にとって、たくさんのお友達や先生がいるだけで、関わりが少なくても幸せを感じていたのでしょうか。
 まあ、私たち家族から見ると“可哀想”と思うような周りからの意地悪やのけものにされていることも、彼女にとっては大したことではないのかも知れません。
 そういう意味では、私たち健常者の方が周りの態度や視線をよほど気にしているのでしょう。人にどう思われているか、自分は悪く言われていないか。自分は自分ということをともすれば忘れがちになってしまいます。
 「他人の目を気にしない」という私のモットーは彼女から教えられたように思います。
 
 さて、保育所の1年の中には、当然運動会や音楽会といった彼らの日ごろの成果を見せるイベントがあります。
 保育所の1年目や2年目はまだ乳児クラスですから、周りのお友達と同様に先生に抱かれたりおひざの上に座ったりしてお遊戯やお歌を披露していました。
 しかし、年少・年中・年長とクラスが上がるに連れて周りのお友達とはどんどん出来ることの差が広がっているので、彼女は大抵その他大勢で出来る種目に出ていました。普通なら、大勢の中に紛れ込んでいる自分の子供を捜すのは一苦労なのですが、彼女の場合は、大好きなジー(おじいちゃん)やバー(おばあちゃん)が見に来ているので、その姿を見つけては一目散にこちらに駆け寄って来るため、すぐに分かるのです。「早く戻りなさい。」と私が言ってもジーにピッタリくっついて離れようとしません。慌てて先生が連れ戻しに来て演技の中に戻るのですが、こちらに向かって走ってくる時の笑顔は、それはもうこれ以上の喜びは無いとでも言いたそうなくらいで、ジーやバーに引っ付いてニコーと微笑む顔はまさに天使そのものでした。
 周りのお父さんやお母さん方も思わず微笑むほどの笑顔で、結局主役級はもらえなくても毎年どの会でも注目を独り占めしていました。
 
 やがて彼女も年長クラスに進級しました。来年は小学校です。保育所の先生方はマイちゃんの発達の遅れをとても心配して下さっていました。
 私もそれまでに彼女の発達が遅いというのは感じていましたが、「幼児期1」で申し上げたように、担当の医師は5歳になっても相変わらず「大丈夫。」を繰り返していましたので、特に何か行動を起こすこともなくいました。その医師は、おそらくずっと「大丈夫。」と言っていて今更「障碍がありましたね。」とは言えなかったのかも知れません。本当に大丈夫だと思っていたのなら、私たちが最悪の医師に診てもらっていたことになるのですが…。
 でも、私も“大丈夫”ではないと気付きながらも、その医師の言葉にいつまでもすがっていたのかも知れません。
 今から思えば、もっと早くに医師を変えるべきだったのでしょう。
 とにかく、その医師は心配する保育所の先生にも「大丈夫。」と言っていたので、保育所の先生も埒が明かないと思ったのでしょう、「来年はマイちゃんも小学校なので一度診断テストを受けていた方がいいと思うのですよ。」と児童相談所へ行くように私に言いました。
 
 「大丈夫。」という医師の言葉と「障碍者」という文字が頭の中を渦巻いている状態で児童相談所に行きました。
 最初は親子で部屋に通されて、彼女の発達について一通りの質問を受けました。 おもちゃのたくさんある部屋にご機嫌で遊んでいたマイちゃんは、やがて指導の先生に連れられてテストのために別室へ行きました。「あっちにもおもちゃがあるから行こうね。」と差し出された手に恐れる事もなく手を伸ばし笑顔で別室へ行く彼女の後姿に、私は「神様、どうか障碍なんてありませんように。」と祈っていました。
 テストはほんの1時間ほどの時間でしたが、私にはそれが3時間にも4時間にも感じられました。
 やがて指導員に連れられて私の待つ部屋へ戻ってきた彼女は、ニコニコといつもの天使の笑顔でした。
 「お母さん、いろいろとテストをさせて頂いたのですが、基準年齢のことで出来ないことがありまして、やはり障碍と認定させて頂かなければならないと思います。」と指導員とテストの結果を考察していた【主任】と胸に名札のついた方が、遠慮がちに私に言いました。「マイちゃんの場合は、こちらの言ってることもよく分かっているし、出来ることもあるんですよ。だから今回はB1判定ということになりました。ショックかも知れませんが、マイちゃんの利用できる施設や制度もありますし、この後何かと認定を受けていた方がマイちゃんのためにもいいと思うんですよ。」と慰めにもならない言葉で私の動揺を少しでも和らげようとしてくれていました。しかし、その時の私は、そんな人の優しさに応えることも出来ず、もう何も聞こえず何も見えずで、ただ「障碍者」「B1判定」という言葉だけが頭の中をぐるぐると駆け巡っていました。
 
 どこをどうして帰ったのかよく覚えてない状態で帰宅し、家で一人で泣きました。どうして涙が出るのか分からないのに独りでに涙がこぼれてきました。
 そんな私の心を溶かしてくれたのもマイちゃんでした。
 私がポロポロ泣いていると、そうっと私の傍に寄ってきて手のひらで涙をぬぐってくれたのです。
 思わずマイちゃんを抱きしめました。そして、「障碍があってもなくてもマイちゃんに何の変わりもないじゃない。昨日も今日もそして明日もマイちゃんはマイちゃんだもの。」って思いました。
 障碍者になったといっても、交通事故で急に体が不自由になった人のように何かが一変したわけじゃありません。マイちゃんが今日できなかったことは、昨日も出来ていなかったことで、ただそれがB1という手帳に表されただけです。マイちゃんは今までもこれからもマイちゃんなのです。
 そんな風に考えたら、どうして涙なんか流したんだろうと馬鹿らしくなってきました。
 「明日、保育所の先生にちゃんと報告して、マイちゃんにあった小学校を探そう。」と思いました。
 
 
更新日時:
2006.03.15 Wed.

幼児期 3
 障碍者が持つ障碍者手帳には、身体障碍者手帳と保健福祉手帳、そして療育手帳があります。
 療育手帳は知的障碍者の方に障碍の程度に応じて、重度のA判定と中軽度のB判定(自治体によってA1・A2〜B1・B2)に分けて交付されるものです。
 マイちゃんの場合、私たちの住んでいる自治体が療育手帳の程度別をA・B1・B2に分けているので、このB1判定になったのです。
 この療育手帳は、一度交付されてもそれが生涯に渡るわけではありません。知的障碍という性質から、成長に応じてさらに障碍が重くなったりあるいは逆に出来ることが増えて障碍が軽くなったりする可能性を秘めているからです。そのため概ね3年から5年で再び判定テストを受けてその障碍に応じて再交付されます。
 マイちゃんも初めての判定ではB1という診断でしたが、現在はA判定になっています。
 
 さて、マイちゃんの障碍を受け入れた私は、保健所でB1判定を受けた彼女の小学校をどこにするかで、9月頃から校区の公立小学校、私立小学校、養護学校でお話を聞いたり、彼女の障碍の状態をお話させて頂いたりするために何度も足を運びました。
 私立の小学校では、「本校は障碍児も受け入れていますし、受験の合格ラインについても考慮しますが、一応受験して頂かないとなりません。」と教頭先生がおっしゃいました。そうしてマイちゃんの様子をみていた校長先生が、「残念ですがおそらく本校の入学は無理があるのではないかと思います。」とおっしゃいました。そしてこの私立小学校に入学している障碍児は身体障碍者の方2名とB2の判定を受けている方1名だけだと聞きました。つまり身体障碍か軽度知的障碍のお子さんだけしか入学できないようです。マイちゃんはこの時B1、つまり中度障碍なので無理なのだそうです。
 私立学校なので、その学校の方針もあるためそれは仕方のないことです。ただ、「今後は中度・重度の障碍児にも出来ましたら門戸を開いて下さい。」とだけお願いして諦めました。
 私立学校は校区がない分通学距離を考えないといけないので、仕事をしている私の代わりに送迎してくれる母のことも考慮した範囲で探すと他にはありませんでしたから、この時点で私立小学校はマイちゃんの進路の選択肢から消去されました。
 校区の公立小学校では、最も回数を重ねてお話しに伺いました。保健所の指導員の方が、「現在のマイちゃんくらいの障碍なら公立小学校のなかよし学級と親学級を行き来する形で充分出来ると思いますよ。何より人と関わることが好きなマイちゃんなので、たくさんのお友達と触れ合えるところがいいと思います。」とアドバイスして下さっていたからです。
 しかし、この公立小学校の校長先生は、ほとんど障碍児に対して無理解の方で、「今、本校にはなかよし学級に6年生と4年生の2人しかいません。お嬢さんが入学する時は現在6年生の子は卒業するのでいませんし、4年生の子は排泄も上手くできず、自分の漏らしたウンチを壁になすりつけるような子なので、近々養護学校に転校してもらうことになっているのですよ。だからお友達が好きなお嬢さんには可哀想でしょう。一人ぼっちになりますからね。」とおっしゃいました。
 文章にすると感情が伝わらないかも知れませんが、その口調は明らかに障碍児を疎ましく思っていて、面倒な子は入学して欲しくないとでも言いたそうなものでした。
 カチンときた私は、「公立学校なので、それでも娘をここに入学させると言えば、断ることは出来ませんよね?」と言うと、「それはそうですが、私はお嬢さんのことを考えて助言しているのですよ。」とおっしゃいました。
 文部科学省では現在、LD(学習障碍)やADHD(注意欠陥多動性障碍)といった高機能障碍児を通常学級で受け入れる対策が講じられていますが、
  (※詳しくはinformation「文部科学省HP」をクリックしてご参照ください)
当時はなかよし学級でさえ入学してくることを望まない学校関係者が多くいました。もちろん中には、障碍児教育に深い理解を持って大変協力的な先生もいます。あの「光とともに」の光くんが通う特殊学級の青木先生のように、とても熱心で学校の考え方を変えてしまうほどの情熱をお持ちの先生と巡り会えれば幸せなのでしょうが、私たちは違いました。
 ただ、一つ付け加えておきますが、これは当時のマイちゃんの校区であるこの公立学校の校長先生や教頭先生のお話であって、現在の校長先生以下諸先生方のことではなく、あるいは現在ではとても障碍者のことを考えてくれる学校になっているかも知れません。また、そうであって欲しいです。
 公立小学校に期待が持てないと悩みながら、今度は養護学校の門をくぐりました。
 マイちゃんと一緒に学校に入ると、校門を抜けた途端マイちゃんは綺麗な黄金色をした砂で敷き詰められた校庭へ走って行きました。ちょうど校庭では、小学部の生徒さんが体育の授業をされていました。一般の学校のそれとは違い、何だかみんな楽しそうにほのぼのとした体育の授業風景でした。その中に彼女が走り寄ると一人の生徒さんが彼女の頭を撫でてくれました。もちろん障碍をお持ちの方ですが、見たところどこが悪いの?と思うような軽度の方でした。マイちゃんが嬉しそうにしていると、複数いらっしゃった担任の先生の一人が、「何か御用でいらっしゃったのですか?」と私に尋ねられました。私が校長先生と進路のご相談に来た旨を伝えると、「では一緒に見ておきますから、彼女が同席しなければならなくなったら呼んでください。連れて行きます。ここの方が楽しそうだから。」と言ってくださいました。障碍児を預かるというのは大変なことです。マイちゃんだけでなく、マイちゃんの行動によって他の生徒さんに何かあったら責任問題ですから、先の2校でも当然彼女を預かるなんてことはありませんでした。驚いたのと同時にさすがは障碍児のプロ、と感心しました。
 それで、私は一人で校長室に行きました。出迎えられた校長先生は、前年に新築されたばかりの校舎の設備のよさを一通り説明されてから、マイちゃんの障碍について質問されました。私は彼女の出来ること出来ないこと、発達テストの判定結果のこと、保健所の指導員の方のご助言、そしてご相談に行った2校の学校とのやり取りなどをお話ししました。
 私の話を聞き終えると即座に校長先生は「うちに来なさいよ。」とおっしゃいました。私が返答に戸惑っていると続けて「うちはもちろん全員障碍児ですが、軽度の子から重度の子まで様々です。でもどの子も本当に優しくて純粋でいい子ばかりなんですよ。お友達が好きならなかよし学級よりここの方がたくさんいますし、マイちゃんも楽しんで通学できるのじゃないかな。」とおっしゃいました。
 そして、窓の外で先ほどの小学部の方と一緒に授業に参加させて頂いてるマイちゃんの様子をご覧になり、振り返って私に「ご覧なさい。」と窓の方に手招きされて、嬉しそうに生徒さんたちと走り回っている彼女の姿を見せました。
 「彼らは本当に純粋なんですよ。なのに世間にも気を遣いながら生活しなければならない事実がある。私たち教育者ももっと社会に彼らのことを理解してもらう努力をしなければならないのに、残念ながら教育者の中でさえ彼らに全く理解のない輩がいるのは悲しいことであり、同じ教育者としてお恥ずかしい限りです。本来、障碍児もこのような養護学校に隔離されるのではなく、社会にはいろんな人がいるのだから通常学級で健常児と一緒に過ごすことの方が自然なのです。しかし、知力の遅れや体力的な問題を理由に排除している。それは健常者側の勝手な理屈に過ぎません。しかしそれが現実なのです。障碍児教育に携わり私も多くのことをここの生徒たちから学びました。自分だけが幸せなら他人はどうでもいいというこの荒廃した社会で、彼らを必要としているのはむしろ健常者側なのです。しかしそれに気付かない、いや気付いていても気付かない振りをしているのです。ただ、そうして嘆いていても仕方がありません。そのような現実を変える努力はしつつ、今は彼女が最も楽しんで且つ安心できる場所で彼女の成長を見守ってはいかがですか?」とおっしゃいました。
 涙が頬を伝わっていました。前の2校では、どちらかというと彼女はお荷物扱いで、出来れば面倒な子供は遠慮したいというような感じでしたから、ご相談中も重苦しい雰囲気で、何より彼女の学校生活を中心に考えて頂けるのではなく、学校の体制の問題や教員の加配の問題や周囲の生徒の問題など、彼女が入学することによる周りの問題を考慮するばかりでしたので、マイちゃんのことを何より第一に考えて下さったことに胸が熱くなったのです。
 “この養護学校に入学させよう” 私の答えは決まりました。
 
 その夜、夫や私の両親に養護学校に入学させることに決めたことを報告しました。私の両親は予想通り大反対でした。保健所の指導員の方にも公立学校のなかよし学級と親学級で対応できると言われていたので、そうするものと思い込んでいたようです。養護学校というと相当重度の子が行くところと思っているようで、「マイちゃんはそんなに悪くない。ただ話せないだけでこちらの言うことも判るし、普通の学校でいいじやないか。」と父が言いました。
 意外だったのは夫も反対したことでした。いつも家事にも育児にも協力的で、彼女の障碍のことを愚痴ることもなく穏やかで優しい人なので、世間体を気にするなんて思ってもいなかったからです。
 「マイちゃんくらいなら、僕も普通校でやれると思うけど…」
 私は、3校の校長先生とのやり取りとその時感じた気持ちを伝えました。
 結局その場では私の考えの全ては理解してもらえませんでしたが、私が「誰からどう思われてもいいの。マイちゃんが一番楽しく通学できる学校に行かせてあげたいの。みんなは世間体とマイちゃんのどっちが大事なの?」と言ったので、それ以上誰も何も言わなくなり、それで話は終わりました。
 それまで、自分の家族がこんなに世間体を気にする人たちだったなんて考えてもみませんでしたが、一般の家庭でもきっとこれが当たり前なんだろうなと改めて思いました。だからこそ、心の底にある偏見のために障碍者に理解が示せないのだろう、と思いました。
 
 マイちゃんの進路が決まったことで、やっと落ち着いた生活に戻りました。保育所の先生や保健所の先生にも報告し、11月の入学前検診でも「要相談」という判定を頂きましたが、すでに養護学校への進学を決めている旨を伝えると了解されました。
 保育所を冬休みする時期になり(保育所は基本的に働く父母のためにその不在の間育児して下さるところなので、私の各休みとともに自動的にマイちゃんも保育所はお休みとなります)、年末年始を楽しく過ごし、新学期が始まりました。
 この頃には全ての進学への準備が整い、あとは保育所の卒園式、養護学校の入学式を待つばかりとなっていました。
 しかし新学期が始まって間もなく、それまでの平穏な生活を一瞬にして消し去る一大事が起きたのです。
 阪神淡路大震災でした。
 
更新日時:
2006.03.19 Sun.

地震
 平成7年(1995年)1月17日未明、ドンと突き上げるような大きな振動の後、数秒の間をおいて、グラグラとそれまで体験したことのない揺れがきました。食器棚が倒れるとともに食器類が散乱して割れる音と冷蔵庫の倒れる鈍い音、テレビが床に落ちる音、傾いたタンスが照明を割りながら倒れてくるガシャーン、ドスンという対極の両音、すさまじい騒音のオーケストラの中で、私はベッドの上でトランポリンに乗っているように弾まされ、自分の意思では身動きも出来ず、その巨大な渦の流れに飲み込まれているかのようで、だだただ布団を握り締めていました。
 どのくらいの時間そうしていたのか分かりません。後に最初の揺れはほんの十数秒と聞きましたが、そのときの私たちには、長い長い時間に感じられていました。
 「地震だ。」叫んだ傍らの夫とともに先ほどよりは穏やかになった怪物の吐息が再び大きくならないうちにと急いで家を飛び出しました。
 マイちゃんは前日からおばあちゃんの家に泊まっていました。虫の知らせというものなのでしょうか? 彼女は前夜一緒に帰ろうと言うのをどうしてもおばあちゃんのところに泊まるとダダをこねていました。
 仕方なくマイちゃんをおばあちゃんの家において夫と帰宅したのですが、もし彼女が私たちと一緒に帰宅して同じベッドでいつものように親子で川の字に並んで寝ていたら、3人のうちの誰かが大怪我かもしくは最悪の事態となっていたでしょう。寝室にあったタンスがベッドに倒れ、ベッドを寄せていた壁が支えとなってわずかに斜めの状態で止まっていたからです。つまりベッドと壁とタンスで出来た小さな三角形のスペースの中で私と夫は下敷きにならず済んだのです。これが3人で寝ていたらタンス側に寝ていた誰か(通常は私です)がタンスに押しつぶされていたことでしょう。
 マイちゃんのことが心配で玄関を飛び出すと、夫と私は何も言い合わなくても互いに一目散に私の実家へと向かっていました。
 「マイちゃん!!」狂ったように叫んでその名を呼ぶと、父と母がマイちゃんをかばうようにしながら出て来ました。
 そろりそろりと歩いて出てきたマイちゃんは、いつもの笑顔を忘れてしまったかのように生気のない顔をしていました。
 「怪我は?」「怪我はないですか?」同時に私と夫が聞き、「大丈夫だ。」という父の言葉にホッと胸を撫で下ろしました。
 その間にも、何度も何度も寄せては返す波のように大きな揺れと小さな揺れは繰り返し、まるで人間の慌てふためく様を楽しんでいるかのように、私たちを弄んでいました。
 近くに住んでいた叔母や弟夫婦も無事な姿を見せて合流し、私たちはとりあえず近くの小学校の体育館へ避難しに行きました。
 しかし、既に体育館は避難している多勢の人で埋め尽くされ、体育館の入り口にいた人に「もう入る場所はないよ。」と言われました。
 仕方なく無事だった自家用車を出し、2台の車に分乗した私たちは、着の身着のままで飛び出していたので、車のラジオの情報であの揺れの正体を探ろうとしました。
 錯綜する情報の中、ラジオからは明確な答えを得られず、寒さを凌ぎながら車の中でじっと怪物が早く行き過ぎてくれることを祈っていました。空は地上の騒動とは無関係のように明るく、美しい朝日の光を私たちの車の中に差し込んでいました。
 昼過ぎには、車のラジオを通して少しずつ状況がもたらされました。
 巨大なコンクリートの城壁のようなあの阪神高速のどこかが倒れ、長田では家々が炎上し黒煙が空を覆いつくしているというのです。
 「悪夢だわ…」思わず口をついて出た言葉に、夢なら早く覚めて欲しいと心の底から祈りました。けれどそんな祈りは通じるはずもなく、この悪夢が真実であることを思い知らされるのみでした。
 車を通してもその揺れは私たちを恐怖の底に落としいれ、マイちゃんはそのたびに両手を震わして「地震だよ…」とでも言いたそうに怯えた表情を浮かべていました。
 その夜、私たちは行き場もなく車の中で一晩を明かしました。うとうと…としかけても過敏になった神経は、わずかな揺れにも睡魔を消し去り不安な気持ちを煽るばかりでした。
 翌日、あまりの惨事に日頃は緊急避難所に指定されていない公民館が、体育館からあふれ出して行き場のなかった私たちに避難場所を提供してくれました。
 この公民館は児童館と一緒になっていて、私の休みの時にマイちゃんとよく来ていたので、彼女をご存知の館関係者がいらっしゃり、「こんな時だから避難所でなくても咎められることはないでしょう。」と中に招き入れてくれたのでした。
 マイちゃんは、本当に天使だとまた実感しました。マイちゃんがいるから神様は私たちに救いの手を差し伸べて下さったのでしょう。
 私たちの姿を見て、私たちの後に何組かの家族も公民館に避難しに来ました。
 この公民館は日頃ご婦人方のカルチャーセンターとして使用されていました。その講習の中には、お茶やお花があるため畳の間がありました。私たちはその畳の間に一緒に避難して来られた方とともに布団を敷き、眠ることが出来ました。
 ライフラインとして最初に復旧したのは電気でした。この畳の間には空調設備もあり、幸いあの地震でも壊れることもなく私たちを寒さから守ってくれました。
 それは、体育館に避難するよりはるかに恵まれた避難生活でした。
 水は、公民館に避難している各家族が順番で給水車に並びました。
 地震から2日後からお弁当の配給が始まりました。栄養的には心配な面がありましたが、とりあえずお腹を満たすことができるだけで有り難いことでしたので、贅沢を言える状況ではありませんでした。
 とにかく生活できる状況は確保できましたが、いまだに続く余震に時折マイちゃんは恐怖の声を上げていました。
 しかし、逆境の時というのは、人を強くそして優しくするようです。ともに避難をしている人たちは、マイちゃんの絶叫にも疎ましい顔をすることもなく、逆に「かわいそうに怖かったことを思い出してるのやねぇ。」と慰めてくれるほどでした。
 私たちは、寒さと空腹から守られたこの公民館で、これ以降私たちのマンションが補修をして帰宅できるようになるまで、およそ3ヶ月もの期間仮住まいを続けることとなるのです。
 
更新日時:
2006.03.15 Wed.

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Last updated: 2006/4/18

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