マイちゃんの小学校生活が始まりました。
彼女の養護学校は小学部から高等部まであり、その小学部に彼女は入学しました。
初日は、みんなと仲良くできるだろうか、先生の言うことはちゃんと聞けるだろうか、楽しく学校生活を過ごせるだろうか…と心配ばかりで学校に送り出しました。
マイちゃんは、スクール・バス通学です。大抵の養護学校がスクール・バス通学を実施していますが、彼女の学校もそれに漏れずスクール・バス通学を選択できます。高等部の生徒は基本的に徒歩通学ですが、一部の重度の高等部生徒や保護者が送迎したり一部の自力通学の児童・生徒を除いて小・中学部の児童・生徒はスクール・バス通学をしています。
しかし、このスクール・バスも現在では教室不足 (※ESSAYの「近年の知的障碍者数増加をご存知ですか?」をご参照ください) と同様、定員がいっぱいの状態で、毎年スクール・バスを増台して下さいと自治体にお願いしている状態です。
さて、彼女の学校生活を心配する私をよそに、彼女は毎日楽しく学校に通いました。保育所の時と違い、周りのお友達も各障碍をお持ちなので無理解によるトラブルもなく、また先生方も彼女が話せないから彼女がそばに寄ってきても気付かないということもなく、人が大好きなマイちゃんにとっては喜ばしい環境だったのかも知れません。
彼女のクラスは、1年と2年の合同クラスで8人の生徒さんが在籍していました。
「入学式」でも申し上げたように、養護学校では、通常学級のそれと違い複数担任制となっています。彼女のクラスも先生が4人いらっしゃいました。
生徒2人に教師1人といっても、障碍児をみるのは本当に大変です。
しかし、先生の仕事はそれだけではありません。
通常学校では、行事関係のことは大抵教師と生徒で創り上げていきます。運動会や音楽会などがその良い例です。生徒たちも飾り付けや舞台の準備など、先生のお手伝いをしながらあるいは生徒たちが率先して創り上げていきます。
でも養護学校では、子供たちには出演の演技や競技の内容を理解させ、実行できるようにするだけで大仕事で、児童・生徒たちに準備まで手伝わせるなんて夢のまた夢です。それ故に、運動会や音楽会の大道具・小道具といったものは全て先生方が作って下さいます。
マイちゃんの初めての運動会で私たちもとても驚きました。その時マイちゃんは、ボールを目的地まで転がしたり、ネットをくぐったり、平均台を渡ったりといった障害物競走のようなものをしました。そして、その体操服の上に羽織ったマントからボールや平均台の飾りつけに至るまで、先生方の手作りでした。
音楽会に至っては、もちろん通常の楽器を演奏したり合唱したりするものではなく、音楽劇のようなものをするのですが、その衣装から舞台背景、大道具、小道具と全てを先生方が作られていました。
もちろん、大道具・小道具だけでなく、何より大変なのは、児童・生徒に演技することを理解させてしかも覚えさせることです。
養護学校へ入学させることを反対していた私の父も、マイちゃんが一生懸命競技したり演技したりする姿を見て、また他の生徒さんも同様の様子を見て、「障碍を持つ子供にあれだけ出来るようにするまでには先生も相当大変だったろうな。でもマイちゃんがあんなに出来るなんて…」と目頭を押さえ、「家族でもマイちゃんにここまでさせるのはきっと無理だろう。それを実際にして下さっている先生方がいる学校は、本当にマイちゃんにとっては良かったのかも知れないな。何よりマイちゃんが楽しそうにしているのだからな。」と言ってくれました。
実際に運動会や音楽会での楽しそうに頑張っているマイちゃんの姿を通して、先生方の真剣さや学校の体制など、私がマイちゃんにはこの学校が良いと言った真実を理解してくれたのです。
お断りしておきますが、私は決して障碍児だから養護学校が良いとは思っていません。障碍児に理解があり、その子が生き生きと過ごせる学校なら、地域の学校でもなかよし学級でも私立の学校でも施設でもどこでも良いと思っています。ただ、彼女の場合は、他の学校・施設と比べて私が養護学校を選んだだけです。果たしてマイちゃんの本心はどうだったか分かりませんが、彼女が喜んで通学していたり校内でも笑顔が多いということを考えると彼女にとっても良かったのかも知れません。
いずれにしても、養護学校入学に反対していた家族に理解されたことは、私にとってもここを選んで良かったと胸を撫で下ろすことのできた出来事でした。
ところで、彼女の入学と同じ頃、私は我が家のホームドクターにマイちゃんが障碍認定を受けたことをお話しました。
風邪をひいたり熱を出したりした時にいつもお世話になっている小児科と内科を併設している小さな医院の女医さんです。この医院は、私の小さな頃から先代の医師に診て貰っていて、現在はその娘さんが跡を継がれていました。
この女医さんは、マイちゃんの発達の遅れについては早くから認めていらっしゃいました。ただ、「お母さん、確かにマイちゃんの発達は遅いかも知れません。でも成長が止まっているわけではなく、小さいながらもマイちゃんなりに成長しています。うちに来られる度に確実に出来ることが増えていますから。だから焦らず見守っていきましょうよ。」と言って下さっていました。当時、あの指定病院の医師に「大丈夫。」と言われていた頃ですから、私も何か行動を起こすこともなく、この女医さんにもどうすれば良いかを問うこともなかったので、このようにおっしゃったのだと思います。
しかし、児童相談所でB1判定を受けたこの時は、マイちゃんに何かしてあげる方法がないのか知りたくて、相談に来たのでした。
私がそのことをお話しすると、医師は「お母さんすみませんでした。」と開口一番おっしゃいました。「私もマイちゃんに発達遅滞があることは認識していました。けれど指定病院の他の先生が障碍とは認めていらっしゃらないので、一介の町医者の私がそれを否定することは出来なかったのです。でも、本来はもっと早くに私が児童相談所などへの発達テストをお受けするように助言するべきでした。そうすればもっと早くいろいろなことが対処できていたと思います。」とおっしゃいました。
“マイちゃんのためにこの医師も自分の行動を振り返り、反省までして下さっている。” そう思うと有り難くて胸が熱くなりました。
マイちゃんが生まれてからこの日まで、私は何度涙を流したことでしょう。けれどその多くが、悲しいことや悔しいことではなく、嬉しいことや喜びや人の優しさに感謝することで溢れ出した涙であったことに改めて気付きました。
彼女の周りには本当に愛情が溢れています。そして、それを私たちはひしひしと感じることが出来るのです。人の優しさや愛情にこんなにも触れることが出来るのは、彼女が私たちの元へ産まれてきてくれたからなのです。
そして医師は、「ここでマイちゃんの発達の助成になる機能訓練が出来ると思います。」と言って、国立の子供専用病院の機能訓練センター宛の紹介書を下さいました。
早速マイちゃんとともにその病院へ行きました。発達テストを行った後、機能訓練プログラムが組まれ、翌週から訓練が始まることになりました。
まだ入学したてのこの頃は、学校も早帰りが多く、私たちは週に3回この病院で訓練を受けることになりました。
どのようなことをしているのかと訓練室の窓を覗くと、ボールをマイちゃんに注目させてそれを転がし、彼女に素早く取りに行かせるといったことやジグザグに置かれたポールの間をポールを倒すことなく早くすり抜けて行くといったことなどをしていました。彼女はそれが訓練と思わず、ただ構ってもらっていると思って喜んでいるのかニコニコして時にはキャッキャッと喜んで指示に従っていました。
言葉が話せないマイちゃんには、発声訓練もありました。
機能訓練と発声訓練を受けて3ヶ月ほど経った頃、私は医師と訓練士から話があると呼ばれました。
「私たちは、マイちゃんの機能訓練と発声訓練をこの3ヶ月ほど行ってきましたが、彼女には、あまり効果がないようでした。と言いますのも、このプログラムにおいてマイちゃんはこちらの指示を理解することも容易に出来、また大抵それを行動することもできます。行動できない時というのは、どちらかと言うと機能的に出来ないというより、気分に寄ってしたりしなかったりということが原因のようです。もちろん自閉症児にはよくあることなので、自閉症用のプログラムも試してみましたが、彼女は人との関わりを非常に求めるため、そのプログラムもあまり効果が期待できませんでした。また、発声訓練では、基本的に難聴児の子供に行うプログラムなのでマイちゃんは耳が聞こえるため、この訓練自体もあまり有効ではないと思われます。」と説明されました。
あれも効果なしこれも有効ではないと言われ、私は不安になって、「では、どうしたら良いのですか?」と尋ねると、医師は、「大変申し上げにくいのですが、3ヶ月の間考えられる全ての訓練を行ってきましたが、有効的なものがない以上、このまま続けることは出来ないのです。ご存知のようにこの病院は体内・外において重症の子供たちが全国からやって来ます。機能訓練にしても順番を待っている状態なのです。マイちゃんの場合、障碍の認定年齢が遅く機能訓練を早く行わなければならないという観点から、すぐに始めさせて頂きましたが、他にも多くの患者が待っています。マイちゃんにはここのプログラムは簡単すぎるようなので、もう少し軽度の障碍プログラムを行っている機関に行って頂きたいと思うのですが、いかがでしょうか?」とおっしゃいました。
確かに、マイちゃんより重症の患者さんが多く、一緒に機能訓練を受けている方を見ても介助の必要な方がほとんどでした。まして、訓練を受けるのを待っている方がたくさんいらっしゃると聞けば尚更です。だから、医師にそう言われても私は反論する言葉を持ち合わせていませんでした。
「これからどうなるのだろう?」と思いながら、次に紹介された家から近い大学病院の小児科の神経内科に行きました。
ここでもまずは発達診断テストを受け、プログラムが始まりましたが、結局マイちゃんには適したプログラムはなく、またこの頃彼女の発作が出始めたために、月に1回の検診を受けながら様子を見ることになりました。
この月に一回の検診は今も続いていて、半年に一度の脳波検査、1年に1度のCTやMRI検査を受けています。彼女の機能助成よりは発作の方が重要な問題になってしまったからでした。
そして、発作という新たな問題が頭を悩ませているこの時期に、私の災害休暇が切れ、職場復帰しなければならない日が近づいていました。
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