障碍を持って生まれてきたマイちゃんとのこれまで

COLUMN

天使の足跡
マイちゃんとともに…

卒園式
 避難所での生活が2ヶ月を越えました。
 この頃、阪神淡路大震災とこの年の恐怖を二分する大事件が起きました。
 東京の「地下鉄サリン事件」です。
 当初地震のことでその放送時間の大半を割いていた各報道番組やワイドショーも、この3月20日を境にその大半の時間をこの悪魔の事件に費やしていきました。
 地震は、自然の為せるわざです。あるいは神様からの啓示かも知れませんが、いずれにしても人間の為せることではありません。
 しかし、この「地下鉄サリン事件」は自分を神と豪語したあさはかな一人の人間によって引き起こされたことです。
 亡くなられた方の家族の悲しみは、その原因が地震であってもサリンであっても変わりませんが、人間が引き起こした事件には、人を憎む心をも植えつけてしまいます。本当に悲しいことです。
 
 さて、地震後私の勤めていた学校は、電車が不通のため、私を災害休職にしてくれました。テレビの情報によると、予想では夏ごろ復旧ということでしたし、はっきりといつ復旧するのか分からないので、とりあえず夏休みまでは休んでいていいということでした。ただ、当時受け持っていた生徒たちの成績だけは提出しなければならないので、夜中にひとりで食堂に行き、生徒の成績を出してそれを書留郵送しました。本来なら生徒の成績関係のものは自宅に持ち帰ってはいけないのですが、学校に行くことが出来ない以上、避難所で成績を出す他にすべはなく、学校から特例ということで同僚の先生が成績を出すための書類をバイクと徒歩で避難所に届けに来てくれたのでした。
 
 私が休職中となったので、マイちゃんも保育所はお休みしていました。けれど、卒園式には出席するつもりなので、卒園式がどうなるのかがとても不安でした。
 保育所は行政からの黄色紙が貼られ、地震後約1ヶ月の休園の後、別の場所に建てられた仮設施設へ引っ越していたからです。
 立ち入り可否についての行政からの建築物審査の結果は、赤紙・黄色紙・緑紙で表示されていました。赤紙は、“倒壊のおそれがあるので立ち入り不可の建物”で、黄色紙は、“補修が完了するまで立ち入ってはいけない”ということ、そして緑紙は“危険箇所の疑いがあったけれど検査の結果大丈夫でした”という標しです。もちろん最初から大丈夫な建物には何も貼られていませんでしたので、全ての建物にこの紙が貼られていたわけではありません。
 保育所だけではありません。私たちのマンションにも黄色紙が貼られていました。地震のために基礎がずれて、補修をしなければ住むことは出来ないそうです。そのため私たちは、地震の揺れが落ち着いてきても自宅へ帰ることが出来ず、またいつになれば帰れるのかさえ分からない状況でした。
 
 間もなくして保育所から卒園式についてのお手紙が届きました。この避難所にいることは伝えていましたので、先生がお見舞いがてらに持ってきて下さいました。
 久しぶりに先生に会えたマイちゃんは、とても嬉しそうでした。
 3月の下旬、例年より遅い日にちでその卒園式は執り行われました。
 例年と違うのは、日にちが遅いことだけではありませんでした。例年は講堂で卒園証の授与や在園生の子供たちの歌に送られて華やかに卒園していくのですが、このときは、仮設保育園の一室で在園生も同席せず、卒園生ですら避難のために田舎に帰っている人たちは欠席している状態でしたから、とても寂しい卒園式でした。
 けれども、先生方の精一杯の愛情が感じられる、とても温かい式でもありました。胸につけるリボンは小さいけれど先生方が作って下さったものですし、頂いた手作りのアルバムには地震を乗り越えて元気に成長して下さいという、地震で心を痛めた子供たちへの思いやりの言葉が並んでいました。同じように大変な出来事を乗り越えてきたので、先生方の一つ一つの言葉にどの父兄も涙涙の卒園式でした。
 マイちゃんも私達の涙に誘われたのか、卒園してみんなと会えなくなると思ったのかポロポロ泣いていました。
 例年とは違うけれど、翌年にはもとの保育所へ戻ったので、この仮設の保育所での卒園式はマイちゃん達だけでしたし、何より先生方の精一杯の思いが充分に伝わった感動の卒園式で、考え方を変えればしたくても出来ない特別な卒園式だったととても心に残っています。
 
更新日時:
2006.02.06 Mon.

入学式
 春の穏やかな日差しのもと、桜は満開を迎え、真っ青な空の下で薄桃色の花びらが舞い散る中、マイちゃんの入学式は執り行われました。
 この日はちょうど7年前のあの大騒動の末、彼女が誕生してくれた記念すべき日でもありました。
 「お誕生日に入学式を迎えられるなんて、二重の喜びだね。」夫の顔も笑顔で満開でした。
 当初、私がマイちゃんを養護学校に入学させることを決めたと言ったときは反対した夫も、その後何度か話し合ううちに私の気持ちを理解してくれたのでした。
 父や母はあの日以来、両親なりに養護学校と普通校のどちらがマイちゃんにとって本当にいいのか、普通校に行って欲しいと思っているのは自分たちの世間体なのか、と私の言葉に深く考えを巡らせているようでした。ただ、まだ答えははっきりと出せず迷いの中にいるようでしたが、それでも面と向かって反対の言葉を表すことはありませんでした。父や母もマイちゃんがかわいいのです。彼女のことを考えていることに変わりはありません。
 
 この年の小学部の新入学生は、マイちゃんともう一人の女の子の2人でした。
 マイちゃんの在籍している養護学校の最近の小学部の入学式では、毎年10人近くの新1年生が入学してきますが、この頃は大抵5人前後の入学でした。(マイちゃんの入学した年は、少ない方だったのです。)このことからも現在は障碍児が増えているということがお分かり頂けると思います。
 (※ESSAYの「近年の知的障碍者数増加をご存知ですか?」をご参照ください。)
 家から学校までは、パパも一緒にお出かけということに喜んでニコニコしていたのですが、式場の講堂に入ると途端に笑顔が消えたので、入学式をちゃんと出来るかとても不安でした。
 彼女も緊張していたのか、いつもと違う雰囲気と知らない人ばかりの中で戸惑っていたのでしょう。それでも大声をあげることもなく、校長先生が新入生の名前を呼ばれたときには、自分の名前が呼ばれると「ア〜イ」と手をあげて返事もできました。 
 その姿を見ていると、彼女が大騒動の末に産まれことや離乳食を食べなかったこと、いつまでたっても立つこともせずもう歩けないのでは…と心配していたこと、突然歩き始めた日のこと、保育所時代のこと、障碍の認定を受けたこと、小学校をいろいろと探し回ったことなど、彼女の今日までのことが走馬灯のように駆け巡り、ここまで大きくなってくれたことに涙が溢れました。マイちゃんは、人よりは遅いかもしれないけれど、彼女なりに心も身体も確実に成長しているのです。毎日の生活の中では何気なく見ていたそのことを、改めて確認できてだだ嬉しかったのです。
 
 何とか無事に式を終え、その後は自分の教室に移動して、担任の先生から学校生活に入る説明を受けました。毎日用意するものやどのような授業を行っていくかなど、分かりやすく説明してくださいました。子供たちに話しかけるときは、大きな声でゆっくりと短く、子供たちが理解できるように気をつけていらっしゃいました。まだマイちやんの障碍認定を受けて間もない私は、障碍児の母としては新米もいいところなので、早口で話しかけていたことを深く反省しました。でも、もともと早口な方なので、その後も自分で気をつけないとゆっくり話しかけてあげることを忘れがちでしたが…。
 マイちゃんのクラスは1年と2年の合同クラスで、8人の生徒さんがいました。担任の先生方は4人でした。
 養護学校の担任の先生は、通常のそれとは違い複数担任制です。おおむね生徒2人に1人の教師がつきます。生徒2人に教師が1人なんて恵まれすぎと思いますか? いえいえ、これでも先生は大変なんです。知的障碍児はその障碍によって行動が様々です。パニックをおこすとそれはもう親でも対処に苦労することも度々です。
 (※詳しくはESSAYをご参照ください。)
それゆえに、2人と言えども先生がお一人で見るというのはとても大変なことなのです。
 もちろん、2人に1人の割合といっても、クラスには他の生徒もいるのですからもちろん他にも教師がいます。大変な状態になってしまった生徒がいれば、その子の担当以外の先生も協力して臨機応変に対処してくださいます。だからこそ複数の担任が必要なのです。
 
 何はともあれ、いよいよマイちゃんの小学生生活が始まりました。これから彼女は、小学部・中学部・高等部と12年間をこの学び舎で過ごします。
 今日のこの1歩が、後の彼女にどのように影響するのか、楽しみでもあり少々不安なようでもある私たちでした。
 
更新日時:
2006.03.15 Wed.

小学時代 1
 マイちゃんの小学校生活が始まりました。
 彼女の養護学校は小学部から高等部まであり、その小学部に彼女は入学しました。
 初日は、みんなと仲良くできるだろうか、先生の言うことはちゃんと聞けるだろうか、楽しく学校生活を過ごせるだろうか…と心配ばかりで学校に送り出しました。
 マイちゃんは、スクール・バス通学です。大抵の養護学校がスクール・バス通学を実施していますが、彼女の学校もそれに漏れずスクール・バス通学を選択できます。高等部の生徒は基本的に徒歩通学ですが、一部の重度の高等部生徒や保護者が送迎したり一部の自力通学の児童・生徒を除いて小・中学部の児童・生徒はスクール・バス通学をしています。
 しかし、このスクール・バスも現在では教室不足 (※ESSAYの「近年の知的障碍者数増加をご存知ですか?」をご参照ください) と同様、定員がいっぱいの状態で、毎年スクール・バスを増台して下さいと自治体にお願いしている状態です。
 
 さて、彼女の学校生活を心配する私をよそに、彼女は毎日楽しく学校に通いました。保育所の時と違い、周りのお友達も各障碍をお持ちなので無理解によるトラブルもなく、また先生方も彼女が話せないから彼女がそばに寄ってきても気付かないということもなく、人が大好きなマイちゃんにとっては喜ばしい環境だったのかも知れません。
 彼女のクラスは、1年と2年の合同クラスで8人の生徒さんが在籍していました。 
 「入学式」でも申し上げたように、養護学校では、通常学級のそれと違い複数担任制となっています。彼女のクラスも先生が4人いらっしゃいました。
 生徒2人に教師1人といっても、障碍児をみるのは本当に大変です。
 しかし、先生の仕事はそれだけではありません。
 通常学校では、行事関係のことは大抵教師と生徒で創り上げていきます。運動会や音楽会などがその良い例です。生徒たちも飾り付けや舞台の準備など、先生のお手伝いをしながらあるいは生徒たちが率先して創り上げていきます。
 でも養護学校では、子供たちには出演の演技や競技の内容を理解させ、実行できるようにするだけで大仕事で、児童・生徒たちに準備まで手伝わせるなんて夢のまた夢です。それ故に、運動会や音楽会の大道具・小道具といったものは全て先生方が作って下さいます。
 マイちゃんの初めての運動会で私たちもとても驚きました。その時マイちゃんは、ボールを目的地まで転がしたり、ネットをくぐったり、平均台を渡ったりといった障害物競走のようなものをしました。そして、その体操服の上に羽織ったマントからボールや平均台の飾りつけに至るまで、先生方の手作りでした。
 音楽会に至っては、もちろん通常の楽器を演奏したり合唱したりするものではなく、音楽劇のようなものをするのですが、その衣装から舞台背景、大道具、小道具と全てを先生方が作られていました。
 もちろん、大道具・小道具だけでなく、何より大変なのは、児童・生徒に演技することを理解させてしかも覚えさせることです。
 養護学校へ入学させることを反対していた私の父も、マイちゃんが一生懸命競技したり演技したりする姿を見て、また他の生徒さんも同様の様子を見て、「障碍を持つ子供にあれだけ出来るようにするまでには先生も相当大変だったろうな。でもマイちゃんがあんなに出来るなんて…」と目頭を押さえ、「家族でもマイちゃんにここまでさせるのはきっと無理だろう。それを実際にして下さっている先生方がいる学校は、本当にマイちゃんにとっては良かったのかも知れないな。何よりマイちゃんが楽しそうにしているのだからな。」と言ってくれました。
 実際に運動会や音楽会での楽しそうに頑張っているマイちゃんの姿を通して、先生方の真剣さや学校の体制など、私がマイちゃんにはこの学校が良いと言った真実を理解してくれたのです。
 お断りしておきますが、私は決して障碍児だから養護学校が良いとは思っていません。障碍児に理解があり、その子が生き生きと過ごせる学校なら、地域の学校でもなかよし学級でも私立の学校でも施設でもどこでも良いと思っています。ただ、彼女の場合は、他の学校・施設と比べて私が養護学校を選んだだけです。果たしてマイちゃんの本心はどうだったか分かりませんが、彼女が喜んで通学していたり校内でも笑顔が多いということを考えると彼女にとっても良かったのかも知れません。
 いずれにしても、養護学校入学に反対していた家族に理解されたことは、私にとってもここを選んで良かったと胸を撫で下ろすことのできた出来事でした。
 
 ところで、彼女の入学と同じ頃、私は我が家のホームドクターにマイちゃんが障碍認定を受けたことをお話しました。
 風邪をひいたり熱を出したりした時にいつもお世話になっている小児科と内科を併設している小さな医院の女医さんです。この医院は、私の小さな頃から先代の医師に診て貰っていて、現在はその娘さんが跡を継がれていました。
 この女医さんは、マイちゃんの発達の遅れについては早くから認めていらっしゃいました。ただ、「お母さん、確かにマイちゃんの発達は遅いかも知れません。でも成長が止まっているわけではなく、小さいながらもマイちゃんなりに成長しています。うちに来られる度に確実に出来ることが増えていますから。だから焦らず見守っていきましょうよ。」と言って下さっていました。当時、あの指定病院の医師に「大丈夫。」と言われていた頃ですから、私も何か行動を起こすこともなく、この女医さんにもどうすれば良いかを問うこともなかったので、このようにおっしゃったのだと思います。
 しかし、児童相談所でB1判定を受けたこの時は、マイちゃんに何かしてあげる方法がないのか知りたくて、相談に来たのでした。
 私がそのことをお話しすると、医師は「お母さんすみませんでした。」と開口一番おっしゃいました。「私もマイちゃんに発達遅滞があることは認識していました。けれど指定病院の他の先生が障碍とは認めていらっしゃらないので、一介の町医者の私がそれを否定することは出来なかったのです。でも、本来はもっと早くに私が児童相談所などへの発達テストをお受けするように助言するべきでした。そうすればもっと早くいろいろなことが対処できていたと思います。」とおっしゃいました。
 “マイちゃんのためにこの医師も自分の行動を振り返り、反省までして下さっている。” そう思うと有り難くて胸が熱くなりました。
 マイちゃんが生まれてからこの日まで、私は何度涙を流したことでしょう。けれどその多くが、悲しいことや悔しいことではなく、嬉しいことや喜びや人の優しさに感謝することで溢れ出した涙であったことに改めて気付きました。
 彼女の周りには本当に愛情が溢れています。そして、それを私たちはひしひしと感じることが出来るのです。人の優しさや愛情にこんなにも触れることが出来るのは、彼女が私たちの元へ産まれてきてくれたからなのです。
 そして医師は、「ここでマイちゃんの発達の助成になる機能訓練が出来ると思います。」と言って、国立の子供専用病院の機能訓練センター宛の紹介書を下さいました。
 
 早速マイちゃんとともにその病院へ行きました。発達テストを行った後、機能訓練プログラムが組まれ、翌週から訓練が始まることになりました。
 まだ入学したてのこの頃は、学校も早帰りが多く、私たちは週に3回この病院で訓練を受けることになりました。
 どのようなことをしているのかと訓練室の窓を覗くと、ボールをマイちゃんに注目させてそれを転がし、彼女に素早く取りに行かせるといったことやジグザグに置かれたポールの間をポールを倒すことなく早くすり抜けて行くといったことなどをしていました。彼女はそれが訓練と思わず、ただ構ってもらっていると思って喜んでいるのかニコニコして時にはキャッキャッと喜んで指示に従っていました。
 言葉が話せないマイちゃんには、発声訓練もありました。
 機能訓練と発声訓練を受けて3ヶ月ほど経った頃、私は医師と訓練士から話があると呼ばれました。
 「私たちは、マイちゃんの機能訓練と発声訓練をこの3ヶ月ほど行ってきましたが、彼女には、あまり効果がないようでした。と言いますのも、このプログラムにおいてマイちゃんはこちらの指示を理解することも容易に出来、また大抵それを行動することもできます。行動できない時というのは、どちらかと言うと機能的に出来ないというより、気分に寄ってしたりしなかったりということが原因のようです。もちろん自閉症児にはよくあることなので、自閉症用のプログラムも試してみましたが、彼女は人との関わりを非常に求めるため、そのプログラムもあまり効果が期待できませんでした。また、発声訓練では、基本的に難聴児の子供に行うプログラムなのでマイちゃんは耳が聞こえるため、この訓練自体もあまり有効ではないと思われます。」と説明されました。
 あれも効果なしこれも有効ではないと言われ、私は不安になって、「では、どうしたら良いのですか?」と尋ねると、医師は、「大変申し上げにくいのですが、3ヶ月の間考えられる全ての訓練を行ってきましたが、有効的なものがない以上、このまま続けることは出来ないのです。ご存知のようにこの病院は体内・外において重症の子供たちが全国からやって来ます。機能訓練にしても順番を待っている状態なのです。マイちゃんの場合、障碍の認定年齢が遅く機能訓練を早く行わなければならないという観点から、すぐに始めさせて頂きましたが、他にも多くの患者が待っています。マイちゃんにはここのプログラムは簡単すぎるようなので、もう少し軽度の障碍プログラムを行っている機関に行って頂きたいと思うのですが、いかがでしょうか?」とおっしゃいました。
 確かに、マイちゃんより重症の患者さんが多く、一緒に機能訓練を受けている方を見ても介助の必要な方がほとんどでした。まして、訓練を受けるのを待っている方がたくさんいらっしゃると聞けば尚更です。だから、医師にそう言われても私は反論する言葉を持ち合わせていませんでした。
 
 「これからどうなるのだろう?」と思いながら、次に紹介された家から近い大学病院の小児科の神経内科に行きました。
 ここでもまずは発達診断テストを受け、プログラムが始まりましたが、結局マイちゃんには適したプログラムはなく、またこの頃彼女の発作が出始めたために、月に1回の検診を受けながら様子を見ることになりました。
 この月に一回の検診は今も続いていて、半年に一度の脳波検査、1年に1度のCTやMRI検査を受けています。彼女の機能助成よりは発作の方が重要な問題になってしまったからでした。
 
 そして、発作という新たな問題が頭を悩ませているこの時期に、私の災害休暇が切れ、職場復帰しなければならない日が近づいていました。
 
更新日時:
2006.03.15 Wed.

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Last updated: 2006/4/18

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