障碍を持って生まれてきたマイちゃんとのこれまで

COLUMN

天使の足跡
マイちゃんとともに…

小学時代 2
 マイちゃんは、よく熱を出しました。小さな頃は熱を出してひきつけが伴う『熱性痙攣』をよく起こしていました。
 でも、今回の痙攣はそれまでと違い、痙攣の度合いもひどく目を向いて人相も変わっていました。死んでしまうのじゃないかと思い、慌てて病院に運びました。
 「てんかん」の疑いがあるということでした。
 知的障碍は、先天性の脳の機能不全による発達障碍ですので、脳の器質疾患であることから知的障碍児はてんかんを発症することがよくあるとのことでした。
 それから彼女の発作の対応に負われました。てんかんは脳波にその独特の波が表れます。彼女にどのくらいの脳波の乱れがあるのかを調べるために、脳波やCT、MRIと検査が続きました。
 彼女はこの時小学部の1年生でしたが、どの検査をするにも彼女は動いてしまうため、それでは正確な脳波や映像がとれません。それで、検査の前に睡眠剤入りのジュースを飲ませるのですが、これを飲むのがまた一苦労でした。オレンジ味やメロン味にしてあるのですが、どうしても薬臭さがあるのか飲むのを嫌がりました。
 どうにか薬を飲ませて眠らせ検査を受けましたが、一旦眠ってしまうと次に目が覚めるまでには2〜3時間以上掛かるため、一日に受けられる検査は1種類だけでした。 国立大学の附属病院のため検査の予約も常に満杯状態でしたので、出来るだけ早い検査日を選んで頂いても、全ての検査を受けてその結果を見て診察を受けるまでには1ヶ月以上が経っていました。
 診察では、医師からやはり「てんかん」であることが告げられました。
 この日から、一日2回の抗てんかん剤のお薬を飲むことになりました。そして、月に一度の受診と半年に一度の脳波検査と1年に一度のCTとMRI検査を受けることになりました。
 彼女の機能訓練をどのようにしていくかという話を医師としている最中の出来事だったのですが、この発作の方が彼女にとっては重大な問題だったため、結局彼女に適した機能訓練を模索している場合ではなくなってしまい、機能訓練についてはいつの間にか医師から語られることはなくなりました。
 
 ちょうどその頃、私の地震のための災害休暇の期限が切れ、職場に復帰する日が来ました。
 職場に復帰してからも月に一度のマイちゃんの受診のため、その日は有給休暇を頂かなくてはなりませんでした。
 お薬と月に1度の受診を続けるうちに、マイちゃんの「てんかん」の状態は、まだたまに大きな発作を起こすことはあったものの、徐々にその回数は減っていきました。お薬が効いてきたようでした。
 ただ、疲れや緊張が続くとやはり発作が起こっていましたので、運動会や音楽会といった行事の後は、必ず大きな発作が出ていました。
 だからこれらの行事のある2学期は、彼女にとっては要注意の時でした。
 「今年もまたマイちゃんの体調に気をつけないといけないね。」と夫と話していた職場復帰後1年近くになった夏休みのある日のこと、私の身体に異変が訪れました。
 夜中に急な下腹部の痛みを感じ、太腿の辺りが濡れているような感じがして目を覚ましました。
 あまりのお腹の痛さに夫に照明を点けてもらうと、夫が立ち上がるために捲り上げた掛け布団の下から、真っ赤に染まったベッドが目に入りました。
 私の出血でした。
 濡れているように感じたのは、この出血のせいだったのです。
 慌てて夫が病院に連れて行ってくれました。病院ではすぐに産科に回されました。切迫流産だろうとのことでした。
 “だろう”というのは、まだ妊娠反応がはっきりと出なかったからです。その時はまだ5週目、つまり妊娠2ヶ月目に入ったところだったので、妊娠反応は3ヶ月を越えるとはっきりと現れるのですが、着床して間もないことから疑陽性しか出ませんでした。しかし、私が過去にも流産を経験していることから、医師は流産を止める処置のためにそのまま入院するよう告げました。
 私はマイちゃんが産まれた後、2度の流産を経験していました。私の体質なのか、それとも立ち続けの仕事柄のせいなのか分かりませんが、いずれも妊娠初期の流産でした。
 流産していたのはマイちゃんに障碍があると分かる以前のことでしたが、夫は一人っ子だったため、自分の子供には兄弟姉妹があって欲しいと言っていたので、彼女の弟妹を強く望んでいましたが、2度の流産で半ば諦めていたようでした。そして私は、マイちゃんに障碍があると分かってからは、彼女のことで頭がいっぱいで弟妹のことなど考える余裕がなくなっていたのでした。
 そんな頃でしたから、夫も私も予想だにしていなかった妊娠に大変驚きました。 
 夫は急いで私の入院に必要な物品を自宅から持って来ました。その姿には、喜びが溢れているように感じられました。
 しかし、私の心境は複雑でした。もちろん赤ちゃんが出来たことは嬉しかったのですが、ただ職場に復帰して1年も経っていない時でしたから、この入院期間がどれくらいになるのか、それが気掛かりでした。
 当初の医師からの入院期間の説明では、流産止めの処置をして落ち着けばすぐに自宅に帰れるとのことでした。しかし、自宅でも安静にしていないと再び流産の危険が出る可能性が高いため、仕事は厳禁と言われました。
 地震後災害休暇を7ヶ月も頂き、ようやく復帰して1年も経たない時でしたので、再び休暇願いを出さなければならないことは、私を非常に悩ませました。しかも出産すれば更に育児休暇を願い出なければなりません。休職するのは無理だと思いました。
 私は、教師という仕事が大好きでした。自分の天職だとさえ思っていました。授業で分からないと言っていた生徒に補習をして、それが分かったと言った時の彼らの目の輝きが好きでした。高校生ですから、思春期の色々な悩みを相談してくる生徒と真剣に向き合って、何とか解決策を見出していったり、答えは出なくても聞いてもらっただけで落ち着いたと言ってくれる時の彼らの純粋な心が好きでした。頑張って進学や就職を成し遂げた時の彼らの生き生きとした表情が好きでした。
 辞めたくはありませんでした。
 けれど、今私のお腹の中で死と闘いながら生きようと必死で頑張っている新しい生命を見殺しにすることも出来ませんでした。
 私にとっては究極の2者択一の問題でした。
 私の中の小さな生命を繋ぎ止める点滴注射を受けながら、病室のベッドの上で悩み抜いた挙句、私は教師を辞める決心をしました。
 そして、その結論を出したことに間違いはなかったと、すぐに気付くことになるのです。
 なぜなら、当初の医師の予想に反して、私の入院生活は、この日から出産して退院するまでの約8ヶ月にも及ぶことになったからでした。
 
更新日時:
2006.03.15 Wed.

小学時代 3 (妹の誕生)
 私はマイちゃんが産まれてから、2度の流産を経験していました。マイちゃんを妊娠したときもそれに気付いたのは、初期の切迫流産からでした。気付くのが早かったため、何とか持ちこたえることが出来たのですが、妊娠8週目までの初期段階で流産になりやすいようで、そのため医師からは慢性流産体質と言われました。そして2度目の流産の後は、「もう子供は無理かも知れないよ。」と最悪の宣告を受けていました。
 しかし、奇跡は起こるものです。
 流産しかけたものの、今までの経験からすぐに病院に行って処置して頂いたお陰で、この赤ちゃんは何とか間に合ってその命を私の体内に留めていてくれたのでした。
 でも、少しでも動けばすぐに流産する恐れがある切迫した状態には変わらず、そのまま入院となってしまいました。
 入院になってしまったため、究極の2者択一の末教師を辞める決意をした私は、夫に退職届を提出しに学校に行ってもらい、この赤ちゃんを無事に産むことだけに専念しました。
 しかし、切迫流産を止めるお腹の張り止めの『ウテメリン』という点滴注射を24時間射しっぱなしにしなければならず、朝昼問わず夜中までもずっと点滴を入れ続けているのは大変な苦痛でした。持続点滴用の長い針を射し、それに点滴のチューブを繋いで、点滴液がなくなれば次の液袋を繋ぐ…といった形で24時間点滴が行われます。そして、衛生面から3日に1度は射していた長針を射し換えなければなりません。
 さらに、妊娠16週つまり4ヶ月までは病院のベッドから降りることも許されず、食事はもちろんトイレも床上でしなければなりませんでした。
 5ヶ月目に入るとやっとベッドから降りることを許されたものの、それもほんのベッドの周りだけで、トイレもベッド脇のポータブルトイレでしていました。
 私が病室の外のトイレに行けるようになったのは、妊娠28週つまり7ヶ月目に入ってからでした。
 
 この間、マイちゃんは私の両親が引き取って面倒をみてくれていましたが、私には彼女のことも気掛かりで、点滴注射の痛みと思うように動けないイライラとマイちゃんの側にいてやれないストレスが余計に私のお腹の赤ちゃんに悪影響を与えていたようです。やっと病室外に出られるようになったのも束の間、今度は切迫早産となり、また室内のポータブルトイレに逆戻りとなりました。
 もちろん『ウテメリン』点滴注射はずっと打ち続けたままですので、その頃の私の両腕は青あざだらけとなっていました。長期間の24時間点滴のせいで血管がもろくなり、点滴針が血管を破ったわけでもないのに点滴液が漏れ出すのです。これは血管壁が長期の薬品によって壊れてそこから液が滲み出しているのだそうです。そうなるとまだ慣れない看護士が針を射し損ねた時のように、血管から漏れた点滴液のせいで皮膚が青あざになるのです。もちろん痛みも伴いますので、針の射し換えの痛みとその漏れ出した液の痛みとで、点滴注射は私を大いに苦しめました。
 やがて私の両腕には長針を射す場所が失くなり、太腿の付け根にその点滴針を通しました。片方の太腿の付け根も青あざになり、もう片方の太腿の付け根にも射しました。柔らかい箇所だけに、その針を射す時の痛みといったらこの上ありません。
 しかし、唯一その痛みから私を我慢させたのは、マイちゃんに弟妹を望む強い思いだったかも知れません。医師から『妊娠は無理だろう』と言われていた後の妊娠だっただけに、常に“これが最後のチャンス”と思っていたからです。
 夫も私の辛い状況をよく理解してくれていて、入浴できない私のために毎日仕事帰りに寄って、身体の清拭や洗髪をしてくれました。彼の優しさに触れるたび、私は夫のためにも必ず元気な赤ちゃんを産むんだという決意を新たにしていました。
 
 そんな切迫早産の危険と隣り合わせの中、それでもお腹の赤ちゃんは精一杯生きようと闘ってくれました。32週を過ぎれば、まだ赤ちゃんは小さいながらも出産することができるそうです。
 私は、毎日お腹が張ってくるとお腹を撫でながら「もう少し頑張ってね。」と赤ちゃんに話しかけ、ベッドの横のお腹の張りを示すモニターを睨み続けていました。
 赤ちゃんの生命力のお陰で何とか32週を越えることができ、医師から帝王切開の術日を決める話が出ました。
 マイちゃんの出産の際、子宮口が開かなかったので、その病院の先生からも「次の出産の時は帝王切開をしないとまた同じことになりますよ。」と言われていましたし、今回の担当医からも最初の内診後にやはり帝王切開での出産になると言われていたからです。
 出来るなら少しでもお腹にいる方が赤ちゃんの成長には良く、産まれてからの負担も少ないのですが、お腹の張りを考えながら術日を決めなければなりません。
 医師は、緊急の手術を避けるために早めの術日を勧めましたが、私は少しでも長くお腹にいる方が赤ちゃんのために良いならそうしたいと医師に告げました。
 それに、出産予定日はマイちゃんと同じ4月だったのですが、医師が勧めたのは3月末だったので、3月と4月ではたった数日差で学校に行ってからの学年が1年変わってしまいます。このことからも私は、頑として4月に入ってからの出産を希望しました。
 今となっては、次女はインターナショナルスクールに通っていますので、9月が始業のINSでは3月生まれだろうと4月生まれだろうと大した問題ではなかったのですが、この時はINSに入学させるなんて思いもしていなかったので、とても大事な問題だったのです。
 ちょうどその頃はお腹の張りが落ち着きを見せていて、赤ちゃんの体重もまだ少なかったので、医師も赤ちゃんの成長を考え4月に入ってからの手術を了解してくれました。ただ、お腹の張りが強くなって医師が手術が必要と判断すれば、すぐにでも決行するという但し付きでしたが…。
 私は、前にも増してお腹の赤ちゃんに「産まれるのは、もう少し待ってね。」と語りかけ、ひたすらお腹を撫でながら4月の来るのを待ちわびていました。
 私の語りかけを聞いていてくれたのか、4月までどうにか持ちこたえてくれた赤ちゃんは、マイちゃんと同じ麗らかな春の日に帝王切開術で誕生しました。
 2,780gの小さいながらも元気な女の子でした。私たち夫婦はこの我が家に舞い降りた2番目の天使に『アヤ』と名づけました。
 マイちゃんにとって初めての自分より小さな存在の誕生でした。
 
更新日時:
2006.03.15 Wed.

小学時代 4
 アヤちゃんが生まれたこの時、マイちゃんは9歳でした。9年も年が離れていると、普通ならお姉ちゃんとしていろいろと赤ちゃんのお世話をしてくれるのでしょうが、9歳といっても発達遅滞のあるマイちゃんはまだ4〜5歳、ちょうど幼稚園児くらいの感じでしたので、マイちゃんからも当然のごとく目が離せないし、赤ちゃんの面倒もみないといけないし、今回の育児はマイちゃんの時とはまた違った大変さがありました。
 幸いマイちゃんとは違い、ミルクも哺乳瓶でよく飲み、離乳期も食べすぎを心配するほど離乳食を食べてくれて、同じ両親から生まれてもこんなに違うものかと感心するほどでしたので、そういう意味では手の掛からない子でした。
 ただ、妊娠が分かってから出産するまでずっと薬漬けの日々だったので、“本当にこの子は大丈夫だろうか? もしかしてこの子も障碍があるのではないだろうか?”という不安はいつも心の片隅に付きまとっていました。
 マイちゃんだって生まれたときには障碍があるなんて分からなかったのですし、知的障碍というのは、ダウン症児のように生まれてすぐには分からず、その成長過程で判明してくるのものなので、今は順調に生育している姿をみていてもやはり不安は拭い切れませんでした。
 しかし、アヤちゃんはそんな親の心配を知ってか知らずか本当に順調な成長ぶりで、8ヶ月の頃にはつかまり立ちをし、9ヶ月の頃にはつたい歩きをしていました。
 2歳を過ぎるまで立つこともできなかったマイちゃんとは全く正反対に、早すぎるほどの成長を見せていました。
 でもたとえアヤちゃんにも障碍があるとしても愛しい我が子には変わりません。その時はその時で覚悟を決めるだけです。
 障碍児の親は、自分の子供に障碍があるから不安を持つのではないのです。まだまだ障碍者に冷たい日本の社会の中で、自分がいなくなった後の子供の将来に対して不安を抱くのです。日本も早く障碍児が生まれても何の心配もなく過ごせる社会になって欲しいです。
 
 さて、マイちゃんは初めてアヤちゃんと病院で対面した時、夫の陰に隠れながら手だけ出して恐る恐るという感じでアヤちゃんに触れました。それから、頭を撫で撫でしてくれて、ニコニコととても嬉しそうでした。
 「自分の妹だって分かってるのかしら?」と思わず夫と顔を見合わせました。
 もしかしてお人形さんのように腕を引っ張るのじゃないか、珍しさのあまりに触りまわして怪我させるのじゃないかと心配していましたが、退院してからもベビーベッド越しにじっと見つめ続けることはありましたが、特に何かをするということはありませんでした。『この小さな不思議な生き物はいったいなんなのだろう?』とでも思っていたのでしょうか。
 でも、アヤちゃんが泣き出した時は、その泣き声に驚いて耳を押さえて“うるさい”という仕草はしていましたが、それも日を追うごとに赤ちゃんが泣いた時は何かを要求している時なんだということを理解していったようでした。
 それは、アヤちゃんが出生後6ヶ月ほど経った頃のこと、アヤちゃんが泣き出したので私がミルクを作っていると、私のところにマイちゃんがやって来たので何か用があるのかと振り返ると、その手にはオムツが握られていたのです。「赤ちゃんが泣いてるからオムツを替えてあげて。」と言わんばかりの様子でした。アヤちゃんの泣き声には相変わらず耳を塞いでいましたが、「お姉ちゃんになったねぇ。」と思わずマイちゃんを抱きしめてしまいました。
 自分より小さな存在は、疎ましい時も厄介な時もあるけれど、でも守ってやらなければならない存在なのだということを彼女に認識させ、一回りも二回りも彼女を成長させたようでした。
 
 そして、アヤちゃんが言葉を発し始めた頃は、言葉を発せられないマイちゃんとまだ片言しか話せないアヤちゃんの間で、不思議な会話が成り立っていることにとても驚きました。側で聞いていても特にはっきりとした言葉をお互いが話しているのではないにも関わらず、二人がキャッキャッと笑ったり何か会話しているように見えるのです。
 純粋な二人は『心』で会話していたのではないでしょうか。コミュニケーションというと言語にばかり頼りがちな私たちは、心の声を聞くことを忘れてしまったのでしょう。しかし、言語を話せないマイちゃんとまだ言語が出始めたばかりのアヤちゃんとの二人の間では、自然と心の声が聞こえていたのではないでしょうか。
 話して欲しいと望むばかりで、子供の心の声を聞くことを忘れていた私にとって、それは大きな衝撃でした。
 
更新日時:
2006.03.15 Wed.

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Last updated: 2006/4/18

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