マイちゃんが高校生になったこの年の9月、アヤちゃんがGrade 2(小学校2年生)になりました。
ある日学校が終わって、いつものように彼女を迎えに行った私の車に乗るなり、アヤちゃんは目を輝かせてとても嬉しそうに「ママ、今日ハンディキャップの勉強したよ。」と言いました。ハンディキャップの授業なんて想像がつかず「どんなハンディキャップの勉強したの?」と私が聞くと、次のような授業を受けたと話してくれました。
Teacher : 「この社会には、色々な人種の人がいて、いろいろな国籍の人がいる。君たちの国籍はどこかな?」
Students : 「ドイツ」「イギリス」「フランス」「イタリア」「アメリカ」「カナダ」「スリランカ」「中国」「スイス」「日本」
T : 「そう、君たちもドイツ人、イギリス人、フランス人、イタリア人、アメリカ人、カナダ人、スリランカ人、中国人、スイス人、日本人と様々いるし肌の色も様々だね。そのようにいろいろな人がいるのが社会で、そしてその中にはハンディキャップを持った人もいる。目の見えない人、足が悪い人、耳の聞こえない人、話せない人、知的にハンディを持った人、精神的にハンディを持った人などいろいろなハンディキャップを持った人がいる。それは、君たちの国籍が違うのと何も変わらない。国籍というのは国が違うということで、ハンディキャップがあるというのは人間的にその機能に関して違いがあるということだ。
例えば、君たちの中には同じ年でも背の高い子もいれば小さな子もいる。太っている子もいればやせている子もいる。声の大きな子もいれば小さな子もいる。ハンディキャップもそのいろいろな違いがあるのと同じなんだ。君たちは、君たちの違いがある中で、困った問題が起こったときどうするかな? 例えば、図書館で高いところに君の読みたい本がある時、君はどうする?」
S : 「椅子を持ってきて取る。」「背の高い子にとってもらう。」
T : 「そうだね。その『椅子』が、例えば目の悪い人の杖であり、足の悪い人の車椅子なんだよ。そして、背の高い子にとってもらうという“背の高い子”というのは、ハンディキャップを持っている人を助けてあげられる人だと考えられるね。君たちの中でもできないことがある人に対してできる人がそれを補ってあげれば、それはもうできないことではなくなるね。それと同じことなんだよ。アヤのお姉ちゃんはハンディキャップがあって話せない。でもアヤはお姉ちゃんの言いたいことが家族の中で一番分かるのだそうだ。それは何故だと思う?」
S : 「アヤが優しいから。」「アヤがお姉ちゃんを好きだから。」「姉妹だから。」
T : 「そうだね、アヤは優しいし、お姉ちゃんのことが好きだし、姉妹だからということももちろんあるだろう。でも、一番の理由はアヤがお姉ちゃんを理解しよう、お姉ちゃんの言うことを分かろうとしているからなんだよ。その気持ちがとても大事なんだ。君たちの中でも困ったことやできないことがあれば、できる人がそれを助けてあげれば解決できるように、ハンディキャップを持った人にもその人のできないことを援助してあげれば、そのハンディキャップはもうハンディでも何でもなくなるだろう。それには、まず君たちがその人を理解する必要があるね。君たちは、アヤのお姉ちゃんという理解するにはとても身近な人がいる。アヤのお姉ちゃんには、学校のイベントがある時は是非来て欲しいと私たちはお願いしているんだ。今度アヤのお姉ちゃんに会った時に、アヤのように話せない彼女と会話するためにはどうすればいいのか、みんながそれぞれ考えて試して欲しい。できるかな?」
S : 「イエス!」
この授業のあと、友達はアヤちゃんに「マイちゃんは何が好きなの?」とか「いつも家でどんな風に過ごしているの?」とかいろいろと聞いてきたそうです。
アヤちゃんは、マイちゃんについてをたくさんたくさん話したそうです。
このような授業は、日本の学校だと今なら特に“プライバシーの侵害”だと大事になるのではないでしょうか。でも、プライバシーの侵害どころか、アヤちゃんはマイちゃんについて聞いてくる友達に、彼女のことをまるで自慢するかのように話せたのです。
障碍を持つ兄弟姉妹がいることで、肩身の狭い思いをする子どもたちがいることは事実です。けれど、そうさせているのは何故なのでしょうか? 何故障害者の兄弟姉妹が肩身を狭くしなければならないのでしょうか? それは、周りの不理解による差別や偏見のためです。
このような授業を受けた子どもたちは、障碍のある人を見下したりはしないでしょうし、その兄弟姉妹をも差別したりはしないでしょう。現にアヤちゃんは、マイちゃんという障碍を持った姉妹がいても周りのお友達からからかわれることもありませんし、だからこそ彼女もマイちゃんを恥じるなんてことはありません。
日本の学校でも小さいときからこのような授業を是非して頂きたいと思いました。
そして、この授業の翌日、私がこのような授業をして頂いたことに感謝を申し上げた時、私の心にとても深く印象に残った先生の言葉があります。
「あの授業に関してあなたが感謝を言うのは間違いです。なぜならあの授業は、アヤのためでもアヤのお姉さんのためでもありません。それは生徒自身のためなのです。そして私たちは、それを教える義務があるのです。私たちは教師だから。」
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