マイちゃんが高等部に入学する前年の9月、アヤちゃんはINSのElementaryに入学しました。この年の1月にこのINSに転校していたアヤちゃんは、すっかり学校にも慣れ、お友達もできて、とても楽しんで学校生活を送っているようでした。
家庭でも日ごとに成長を感じられるようになってきました。アヤちゃんは、本当にマイちゃんの面倒をよく見てくれます。
朝、学校に行くとき、私がお弁当を作ったり、マイちゃんの持ち物をカバンに入れたりして登校の準備していると、アヤちゃんは自分の身支度はさっさと済ませて、マイちゃんの歯の仕上げ磨きをしたり、制服の乱れを直したり、上手く履けなかった靴下を直してくれたりしています。
私が「ごめんね。マイちゃんの支度手伝ってくれてありがとう。」と言うと、「当たり前よ。だってマイちゃんは天使さんだからできないことがいっぱいあるのよ。その分アヤに手伝ってあげなさい、って神様が教えてくれてるのよ。」と言います。
とても嬉しいのですが、彼女にそう言わしめるほど彼女を洗脳してしまっているのかと、自分でも悩んでしまうこともあります。
でも彼女は、無理にそうしているのではなく、本当に自然にマイちゃんのできないことに手を貸しています。決してマイちゃんのできることまで手を出すようなことはしません。また、マイちゃんがしようとしていることは、彼女が根をあげて「して。」と要求するまで待っています。それは、親の私が学ばなくてはならないくらいです。
ついつい私は、時間に追われたり焦ったりして待つことができません。ともすれば、時間を気にするあまり、マイちゃんのできることさえしてしまうことがあります。それではいけないと分かっていても、“つい…”を繰り返している日々です。その度にアヤちゃんには、「それは、マイちゃんが自分でできることだからママがしてはダメだよ。」って注意されるほどです。
また、マイちゃんの言いたいことは、彼女が小さな頃私に『心の会話』を教えた当時と変わることなく、家族の誰よりも理解することができます。アヤちゃんは今でもマイちゃんの一番の話し相手です。
生まれたときから障碍のあるマイちゃんと関わっているから自然とそのようなことができるのか、それともアヤちゃんだからできるのか、それはよく分かりません。
でも、いずれにしてもそのように成長しているアヤちゃんを、親としてとても嬉しい気持ちで見ています。
そして、アヤちゃんがElementaryに入学したこの9月は、シーちゃんとマーくんのお誕生日があり、2人は3歳になりました。
3歳にもなると、とても大きくなったなぁと実感することが多々出てきます。
1歳の頃はマイちゃんと変わらないくらいの語彙数だったのが、2歳には比べものにならないくらいその数は増え、3歳になったこの頃には、憎たらしい口を利くようにさえなっていました。
マイちゃんとの関わり方も、1歳の頃はマイちゃんが頭を撫でたりするとニコニコと微笑んでいただけでしたが、2歳の頃はおもちゃを取り合って、でも力ではマイちゃんにかなわないので、思うように自分の欲しいものが得られず泣いたりしていました。それが3歳にもなると、マイちゃんが彼らのおもちゃを欲しがったりすると「マイちゃんダメ!」とマイチャンを叱ったりするようになっていました。
言葉もできることもマイちゃんを追い越す勢いでした。
2人は生まれて3ヶ月目の頃から私の実家に毎週土曜日にお泊りしていました。双子を授かったために、仕事で帰りの遅い弟にはほとんど手伝ってもらえず、平日は一人で2人の育児に追われているようなものである義妹が育児ノイローゼにならないかと私の母が心配して、週に一度土曜日だけは子どもたちを預かって息抜きさせてあげたいと言うので、土曜日は必ずマイちゃんとアヤちゃんとシーちゃんとマーくんの4人はおばあちゃん家でお泊りになっています。
小さな頃からマイちゃんやアヤちゃんと関わってきたせいか、4人は本当に兄弟姉妹のようです。
特にシーちゃんはアヤちゃんが大好きで、アヤちゃんと一緒のことをしたがり、同じものを欲しがり、常にアヤちゃんに付きまとっています。マーくんも他に男の子がいないせいもあり、また優しい性格のせいも相まって、いつも一緒に遊んでいます。
マイちゃんに対してもその扱いはごくごく『普通』です。障碍があるかないかなんて彼らには関係ありません。話せなくても“それがマイちゃん”であり、彼らの中ではそれが普通で、決して『特別』ではないのです。
だから仲良く遊んでもいますし、時にはケンカもします。それはどこにでもいる兄弟姉妹がそうするのと何ら変わりません。
物心付く前からマイちゃんとも一緒に過ごし、またアヤちゃんのマイちゃんに対する態度を見ていて自然にそうなっていったと思いますが、私やおばあちゃんや弟夫婦が特に何を言わなくても、アヤちゃんと同じようにマイちゃんに接しています。
彼らを見ていると、『障碍』に対する理解は、やはり触れ合ったり関わったりするところから始まるのだと教えられます。
誰だって欠点や短所があるはずです。『障碍』だって、そういう意味ではその人の性格や個性と同じです。
できないことを補い合いながら共に成長していく姿は、健常者や障碍者という枠を超えて、人と人との関わりの原点を教えてくれているように感じています。
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