『しあわせ』とは、何かを失わないと得られないものなのでしょうか? 嬉しいことがあると代わりに悲しいことが必ずくるのでしょうか。幸せはずっと続いてはくれないものなのでしょうか?
私はマイちゃんが生まれた後、長い間赤ちゃんが欲しくてもできず、やっとのことでアヤちゃんが生まれ、弟夫婦にも念願の子どもであるシーちゃんとマーくんが生まれ、小さな悩みはあっても我が家にとって幸せな時間が流れていたのに、突然不幸の石が投げられたような出来事が起こりました。
私の父の病気です。大腸癌でした。
それまで父は、体格もしっかりとして元気そのもので、自他ともに認める医者要らずの健康体でした。会社の定期健診でも特に問題もなく、弟夫婦の子どもたちの誕生、特に初めての男の子の孫の誕生に喜びを隠せない様子で、毎日をささやかながらも幸せに過ごしていました。
マイちゃんのことも、初孫ということもあり、また障碍があることも相まって、本当に目の中に入れても痛くないという可愛がりようでしたし、マイちゃんもまたそんなじいが大好きでした。
私たちにとっては本当に幸せな時間だったのです。
父の病気が分かったのは、4月にマイちゃんが中学部に入学し、9月にシーちゃんとマーくんが誕生し、お宮参りを済ませた直後の10月下旬のことでした。
その日、赤ちゃんが産まれたばかりの弟家族は残して、私たち家族と父母と叔母で芋掘りに行きました。 楽しく芋掘りをした帰りにレストランで夕飯を食べ、食べ過ぎたと笑っていた父は、翌朝、大量の下血をしました。
慌てて、病院に連れて行き検査をすると、大腸癌であることが分かりました。
急遽入院となり、11月の下旬に手術が執り行われました。
術後医師から「この大腸癌は、ここ数ヶ月でできたものではなく、数年掛けて大きくなっていると思われます。現段階では、周辺の転移は認められませんでしたが、こんなに大きくなっているのに一箇所でとどまっていたというのは奇跡的です。しかし、一応患部は摘出したもののこれだけの大きさなので、現段階では分からなくてももしかしたらリンパを通じて転移している可能性はあります。」と言われました。
そのため、術後の抗癌剤投与を受けることになりました。
抗癌剤と一口に言っても、いくつも種類があります。父にとってどの抗癌剤が有効かを調べるために、何種類もの抗癌剤を試しました。
私たちは毎日のように父の病室を訪れました。マイちゃんもじいがいないと寂しくて、「じい」「じい」と言い、病室でじいの側に寄り添ってはお腹を撫で撫でしていました。早くよくなれというマイちゃんの精一杯の表現だったのです。じいもそんなマイちゃんを愛おしそうに見つめていました。
お正月には一時帰宅したものの再び入院し、やっとのことで抗癌剤が決まって退院となったのは1月下旬のことでした。これからは、週に2回外来で抗癌剤投与を受けることになります。
父は、1年近くを抗癌剤投与を受けながら過ごしました。父の様子は、今までとあまり変わりなく一見すると元気そうに見えたので、私たちは一安心していたのです。
その間にも、マイちゃんの初潮があったり、アヤちゃんの転校があったり、シーちゃんやマーくんの初誕生のお祝いがあったり、お祝い事が続いていたので父も嬉しい日が重なり、病気も治まったように見えていました。
しかし、病魔は着々と静かに父の身体を侵蝕していたのです。
大腸癌の手術から1年経った何度目かの詳しい検診の際、肝臓への癌の転移が認められました。
しかし、肝臓の中の癌は、以前の大腸癌のときとは違い、肝臓全般に散っていたため、外科的手術は不可能とのことでした。
父は、新たな抗癌剤の種類を見極めるため、再び入院しました。
今度の抗癌剤は、以前のものより強力なため副作用も激しく、嘔吐と食欲不振は父の体力を奪い取っていきました。父の体重は激減し、あれだけ恰幅のよかった身体もみるみるうちに痩せ細っていきました。
あまりの副作用の強さに退院もできず、再入院から3ヶ月を迎えようとしていた頃、医師から「これだけ強い副作用に耐えてもらっているにも関わらず、期待したほどの結果は得られていない。」と言われました。そして、「このままいけば余命は半年もないだろう。」と言いました。
あの元気な父が死ぬなんて私には信じられませんでした。いいえ、信じたくなかったのです。でも現実は変えようがないということを、日々衰えていく父の身体が物語っていました。
その頃父は、故郷の話をよくしていました。父は九州の出身でした。田舎の親戚や旧友に会いたいとも言っていました。
それで私たちは、まだ父の身体が動くうちにと、医師に許可を取り、家族で九州へ行くことにしました。その際医師は、「最後の思い出に故郷でゆっくりさせてあげてください。」と言われました。その言葉に、父の死期が近づいていることを認識させられました。
父は4月上旬に退院し、2週間後私たちは3泊4日で九州旅行に出掛けました。
飛行機の中でも、到着してからも父は終始ご機嫌でした。
親戚や旧友に会い、予約していたホテルにも泊まらず、旧友のところで語り明かし、楽しい時間を過ごしたようでした。
父も自分の死期が近いことを悟っていたのでしょう。時間を惜しむかのように、過ごしていました。
アッという間の3泊4日が過ぎ、父は名残惜しそうに九州を後にしました。
帰宅すると父は、入院を拒みました。私たちは、父の好きなようにさせてあげたいと自宅療養させることに決めました。
それまでかかっていた大学病院の先生に診断書と詳しい所見を書いていただき、近所の医院の医師に往診していただくようになりました。
私たちは、入院していた頃以上に父の側に居ることができるようになり、マイちゃんもアヤちゃんも父が疲れるからと引き離すまでじいの側を離れませんでした。義妹も仕事で弟がいなくても毎日のようにシーちゃんとマーくんを連れて来てくれました。
九州から戻った翌月、マイちゃんの修学旅行がありました。父の故郷は南九州だったので、修学旅行先が北九州だったマイちゃんは、ふた月で九州制覇をしてしまいました。
マイちやんの出発のときは、しんどい身体をおして私や母と一緒に駅までマイちゃんを見送りに行ってくれました。マイちゃんは、じいの手を引き一緒に行こうという仕草を何度もしました。九州に行けば、じいがまた喜ぶと思っていたのでしょうか。それとも残り少ないじいとの時間を感じ、一時も離れたくなかったのでしょうか。私も母も父に隠れて涙を拭っていました。
その後父は、しばらくは抗癌剤を受けに大学病院の外来にも通っていましたが、そのうち体力的にも通院することが不可能になってきました。
やがて父は、抗癌剤を受けることを嫌がるようになりました。それで医師に相談すると、医師は「抗癌剤の効果もあまり得られていないので、本人が希望するなら抗癌剤投与を止めてもよい。」と言いました。
私たちは父に、副作用なく最後のときまでゆったりと過ごして欲しいと思いましたが、癌の進行は私たちの想像より早くに父の身体を蝕んでおり、やがては骨にまで達し、父は抗癌剤の副作用がなくなっても、痛みと闘い続けなければなりませんでした。肝臓に転移していたため、黄疸がひどくなり腹水も溜まり始めました。
往診に来てくれている医師が、自宅で腹水を抜いてくれましたが、その日にちも徐々に間隔が狭くなりました。最初は1週間に1回だったのが、この頃には1日おきになっていました。
この年は大変な猛暑で、5月から夏日を記録するほどの暑さでした。
腹水が抜いても抜いても毎日溜まるほどになっていた7月には、父の身体は以前の半分以下になり、自分の体温の調整機能も低下しているようでした。暑いと言ってクーラーをかけると、今度は寒いと言ってクーラーを切る、という繰り返しで、しかもそれは夜中にもおよび、介護している私たちも体力的に限界に近い状態でした。
しかし、一番辛いのは父です。私たちが泣き言を言っている場合ではありませんでした。
その頃私は、朝一度父のところへ行き、洗面を手伝ったり、朝食を食べさせたり、身体を拭いてあげたりして、夏休みで家に居るマイちゃんとアヤちゃんに昼ご飯を食べさせるために一度家に戻り、再び父のところに行くという生活をしていました。母は夜中父についているので、朝は私が介護していました。
その日は、お盆を過ぎたいつも以上に暑い日でした。 いつものように朝、父のところに行って朝食を食べさせ、洗面と清拭をして、マイちゃんとアヤちゃんに昼ご飯を食べさせるために戻ろうとしたとき、父は私に「子どもたちのこと頼むぞ。マイちゃんのこと頼むからな。」と言いました。私は、「分かってるよ、大丈夫よ。そんなこと気にしなくていいから、病気を治すことだけ考えてね。」と答えました。
父は、微かに笑って「うんうん」とうなづきました。
それが父の最期の姿でした。私が帰った直後、父は息を引き取っていました。
人は、最期の姿を見せずに亡くなるとよく聞きます。昏睡状態にあっても、ちょっと家族が居なくなった間に急変して亡くなったりすることはよくあることだそうです。ドラマのように息を引き取る瞬間を見せることの方が珍しいそうです。
最期の姿を見せると、家族がその悲しみから逃れられなくなるからだとも聞きました。きっと父もそうだったのかも知れません。
でも、最期の姿を見なくても、悲しみは大きすぎました。
父のお葬式のとき、マイちゃんは父の亡骸にずっとすがっていました。もう再びその目を開けることのなくなったじいの頬をさすり、涙をポロポロこぼしていました。声をあげて泣いていました。
大好きなじいとの別れは、マイちやんの心に大きな穴を開けたようでした。
それからしばらくマイちやんは、あの天使の笑顔を忘れたようになっていました。
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