障碍を持って生まれてきたマイちゃんとのこれまで

COLUMN

天使の足跡
マイちゃんとともに…

中学時代 6 (じいとの別れ)
 『しあわせ』とは、何かを失わないと得られないものなのでしょうか? 嬉しいことがあると代わりに悲しいことが必ずくるのでしょうか。幸せはずっと続いてはくれないものなのでしょうか?
 私はマイちゃんが生まれた後、長い間赤ちゃんが欲しくてもできず、やっとのことでアヤちゃんが生まれ、弟夫婦にも念願の子どもであるシーちゃんとマーくんが生まれ、小さな悩みはあっても我が家にとって幸せな時間が流れていたのに、突然不幸の石が投げられたような出来事が起こりました。
 私の父の病気です。大腸癌でした。
 それまで父は、体格もしっかりとして元気そのもので、自他ともに認める医者要らずの健康体でした。会社の定期健診でも特に問題もなく、弟夫婦の子どもたちの誕生、特に初めての男の子の孫の誕生に喜びを隠せない様子で、毎日をささやかながらも幸せに過ごしていました。
 マイちゃんのことも、初孫ということもあり、また障碍があることも相まって、本当に目の中に入れても痛くないという可愛がりようでしたし、マイちゃんもまたそんなじいが大好きでした。
 私たちにとっては本当に幸せな時間だったのです。
 
 父の病気が分かったのは、4月にマイちゃんが中学部に入学し、9月にシーちゃんとマーくんが誕生し、お宮参りを済ませた直後の10月下旬のことでした。
 その日、赤ちゃんが産まれたばかりの弟家族は残して、私たち家族と父母と叔母で芋掘りに行きました。 楽しく芋掘りをした帰りにレストランで夕飯を食べ、食べ過ぎたと笑っていた父は、翌朝、大量の下血をしました。
 慌てて、病院に連れて行き検査をすると、大腸癌であることが分かりました。
 急遽入院となり、11月の下旬に手術が執り行われました。
 術後医師から「この大腸癌は、ここ数ヶ月でできたものではなく、数年掛けて大きくなっていると思われます。現段階では、周辺の転移は認められませんでしたが、こんなに大きくなっているのに一箇所でとどまっていたというのは奇跡的です。しかし、一応患部は摘出したもののこれだけの大きさなので、現段階では分からなくてももしかしたらリンパを通じて転移している可能性はあります。」と言われました。
 そのため、術後の抗癌剤投与を受けることになりました。
 抗癌剤と一口に言っても、いくつも種類があります。父にとってどの抗癌剤が有効かを調べるために、何種類もの抗癌剤を試しました。
 私たちは毎日のように父の病室を訪れました。マイちゃんもじいがいないと寂しくて、「じい」「じい」と言い、病室でじいの側に寄り添ってはお腹を撫で撫でしていました。早くよくなれというマイちゃんの精一杯の表現だったのです。じいもそんなマイちゃんを愛おしそうに見つめていました。
 
 お正月には一時帰宅したものの再び入院し、やっとのことで抗癌剤が決まって退院となったのは1月下旬のことでした。これからは、週に2回外来で抗癌剤投与を受けることになります。
 父は、1年近くを抗癌剤投与を受けながら過ごしました。父の様子は、今までとあまり変わりなく一見すると元気そうに見えたので、私たちは一安心していたのです。
 その間にも、マイちゃんの初潮があったり、アヤちゃんの転校があったり、シーちゃんやマーくんの初誕生のお祝いがあったり、お祝い事が続いていたので父も嬉しい日が重なり、病気も治まったように見えていました。
 
 しかし、病魔は着々と静かに父の身体を侵蝕していたのです。
 大腸癌の手術から1年経った何度目かの詳しい検診の際、肝臓への癌の転移が認められました。
 しかし、肝臓の中の癌は、以前の大腸癌のときとは違い、肝臓全般に散っていたため、外科的手術は不可能とのことでした。
 父は、新たな抗癌剤の種類を見極めるため、再び入院しました。
 今度の抗癌剤は、以前のものより強力なため副作用も激しく、嘔吐と食欲不振は父の体力を奪い取っていきました。父の体重は激減し、あれだけ恰幅のよかった身体もみるみるうちに痩せ細っていきました。
 あまりの副作用の強さに退院もできず、再入院から3ヶ月を迎えようとしていた頃、医師から「これだけ強い副作用に耐えてもらっているにも関わらず、期待したほどの結果は得られていない。」と言われました。そして、「このままいけば余命は半年もないだろう。」と言いました。
 あの元気な父が死ぬなんて私には信じられませんでした。いいえ、信じたくなかったのです。でも現実は変えようがないということを、日々衰えていく父の身体が物語っていました。
 
 その頃父は、故郷の話をよくしていました。父は九州の出身でした。田舎の親戚や旧友に会いたいとも言っていました。
 それで私たちは、まだ父の身体が動くうちにと、医師に許可を取り、家族で九州へ行くことにしました。その際医師は、「最後の思い出に故郷でゆっくりさせてあげてください。」と言われました。その言葉に、父の死期が近づいていることを認識させられました。
 
 父は4月上旬に退院し、2週間後私たちは3泊4日で九州旅行に出掛けました。
 飛行機の中でも、到着してからも父は終始ご機嫌でした。
 親戚や旧友に会い、予約していたホテルにも泊まらず、旧友のところで語り明かし、楽しい時間を過ごしたようでした。
 父も自分の死期が近いことを悟っていたのでしょう。時間を惜しむかのように、過ごしていました。
 アッという間の3泊4日が過ぎ、父は名残惜しそうに九州を後にしました。
 
 帰宅すると父は、入院を拒みました。私たちは、父の好きなようにさせてあげたいと自宅療養させることに決めました。
 それまでかかっていた大学病院の先生に診断書と詳しい所見を書いていただき、近所の医院の医師に往診していただくようになりました。
 私たちは、入院していた頃以上に父の側に居ることができるようになり、マイちゃんもアヤちゃんも父が疲れるからと引き離すまでじいの側を離れませんでした。義妹も仕事で弟がいなくても毎日のようにシーちゃんとマーくんを連れて来てくれました。
 
 九州から戻った翌月、マイちゃんの修学旅行がありました。父の故郷は南九州だったので、修学旅行先が北九州だったマイちゃんは、ふた月で九州制覇をしてしまいました。
 マイちやんの出発のときは、しんどい身体をおして私や母と一緒に駅までマイちゃんを見送りに行ってくれました。マイちゃんは、じいの手を引き一緒に行こうという仕草を何度もしました。九州に行けば、じいがまた喜ぶと思っていたのでしょうか。それとも残り少ないじいとの時間を感じ、一時も離れたくなかったのでしょうか。私も母も父に隠れて涙を拭っていました。
 
 その後父は、しばらくは抗癌剤を受けに大学病院の外来にも通っていましたが、そのうち体力的にも通院することが不可能になってきました。
 やがて父は、抗癌剤を受けることを嫌がるようになりました。それで医師に相談すると、医師は「抗癌剤の効果もあまり得られていないので、本人が希望するなら抗癌剤投与を止めてもよい。」と言いました。
 私たちは父に、副作用なく最後のときまでゆったりと過ごして欲しいと思いましたが、癌の進行は私たちの想像より早くに父の身体を蝕んでおり、やがては骨にまで達し、父は抗癌剤の副作用がなくなっても、痛みと闘い続けなければなりませんでした。肝臓に転移していたため、黄疸がひどくなり腹水も溜まり始めました。
 往診に来てくれている医師が、自宅で腹水を抜いてくれましたが、その日にちも徐々に間隔が狭くなりました。最初は1週間に1回だったのが、この頃には1日おきになっていました。
 この年は大変な猛暑で、5月から夏日を記録するほどの暑さでした。
 腹水が抜いても抜いても毎日溜まるほどになっていた7月には、父の身体は以前の半分以下になり、自分の体温の調整機能も低下しているようでした。暑いと言ってクーラーをかけると、今度は寒いと言ってクーラーを切る、という繰り返しで、しかもそれは夜中にもおよび、介護している私たちも体力的に限界に近い状態でした。
 しかし、一番辛いのは父です。私たちが泣き言を言っている場合ではありませんでした。
 
 その頃私は、朝一度父のところへ行き、洗面を手伝ったり、朝食を食べさせたり、身体を拭いてあげたりして、夏休みで家に居るマイちゃんとアヤちゃんに昼ご飯を食べさせるために一度家に戻り、再び父のところに行くという生活をしていました。母は夜中父についているので、朝は私が介護していました。
 その日は、お盆を過ぎたいつも以上に暑い日でした。 いつものように朝、父のところに行って朝食を食べさせ、洗面と清拭をして、マイちゃんとアヤちゃんに昼ご飯を食べさせるために戻ろうとしたとき、父は私に「子どもたちのこと頼むぞ。マイちゃんのこと頼むからな。」と言いました。私は、「分かってるよ、大丈夫よ。そんなこと気にしなくていいから、病気を治すことだけ考えてね。」と答えました。
 父は、微かに笑って「うんうん」とうなづきました。
 それが父の最期の姿でした。私が帰った直後、父は息を引き取っていました。
 
 人は、最期の姿を見せずに亡くなるとよく聞きます。昏睡状態にあっても、ちょっと家族が居なくなった間に急変して亡くなったりすることはよくあることだそうです。ドラマのように息を引き取る瞬間を見せることの方が珍しいそうです。
 最期の姿を見せると、家族がその悲しみから逃れられなくなるからだとも聞きました。きっと父もそうだったのかも知れません。
 
 でも、最期の姿を見なくても、悲しみは大きすぎました。
 父のお葬式のとき、マイちゃんは父の亡骸にずっとすがっていました。もう再びその目を開けることのなくなったじいの頬をさすり、涙をポロポロこぼしていました。声をあげて泣いていました。
 大好きなじいとの別れは、マイちやんの心に大きな穴を開けたようでした。
 それからしばらくマイちやんは、あの天使の笑顔を忘れたようになっていました。
 
更新日時:
2006.03.29 Wed.

中学時代 7
 じいがお空に帰って、マイちゃんの精神状態が不安定な次期が続きました。
 マイちゃんはこのとき中学部3年生でした。じいが亡くなる前に修学旅行が終わっていたことは救いでした。
 なぜなら、この年マイちやんと担任の1人との間でトラブルが起こったからでした。
 この年のマイちゃんのクラスの教員は5名でした。『中学時代 4』でも述べましたが、彼女の通う養護学校は毎年担任教員の変動があります。中学部2年から3年に進級したこの年は、2名の教員が入れ替わりました。そしてこの養護学校では、クラス担任が週替わりで各生徒の担当となります。
 今年新たに加わった内の1人の先生が担当のとき、マイちゃんに今までにない発作が起こったのでした。
 
 養護学校に関わらず一般の学校でも、教師の指導法はその先生によって様々です。もちろんそれがその先生の個性であり、各教員の指導方針に基づくものなのですから、いろいろな先生がいて当たり前です。
 私も教師でしたが、私は生徒ととても仲が良かった分、他の一部の先生や上司には疎ましく思われていました。生徒のことを一番に考えるが故に、教科内のやり方とそぐわなかったり、他の先生と足並みを揃えなかったりしたからです。
 具体的には、授業の分からない生徒のために他のクラスがしていない補習をしたり、授業中でも悩みを打ち明けてくる生徒の話をみんなで考えたりしたので、「勝手に補習なんかしてもらっては困る。」とか「授業中には授業だけをするように。」と、他のクラスの担任や教科担当の先生、また教頭や校長によく叱られました。
 でも、大学進学率のためにできる子だけに的を合わせて授業を行い、つまづいた子を放ったらかしにするやり方には納得できませんでした。また、思春期のこの頃の子どもたちには、多くの悩みがあります。確かに勉強も大事ですが、学校とは勉強だけを教えるところではありません。教育指導要綱にも必ず「生徒・児童の人間形成、人格形成を促す」ことが目的であると明記されています。だったら、子どもたちの悩みに真剣に向き合い、その生徒の人格や人間形成に必要な援助をしてやることもとても大切なことだと思うのです。
 だから、私は自分の信念に基づいた授業をしていたつもりです。
 もちろん、賛否両論あるとは思います。でもいろんな生徒がいて、いろんな教師がいるから学校なのです。規格化された教師ならロボットでもよくなってしまうじゃないですか。
 
 だから私は、マイちゃんの担任にも「こうして下さい。」と注文することは今まではありませんでした。ただ、彼女の発作に関することだけは、注視をお願いしていました。でも、小学部に入学してから今までは、先生方と特に問題はなかったのです。もちろん、中には相性の合わない先生もいました。でも、それはその先生の個性だと割り切っていたので、いろんな人と関わることもマイちゃんのためですし、何ら文句を言うこともありませんでした。
 
 でも、今回は違いました。
 中学部3年で新たにマイちゃんのクラス担任に加わった1人の先生の指導方法と、マイちゃんがあまりにも合わなかったのです。
 当初は、私もマイちゃんを心配しながらも、それでも特に何も言うことなく様子を見ていました。修学旅行のときも心配はありましたが、昨年からの先生によくお願いしたこともあり、黙って送り出しました。
 ただ、じいが亡くなってマイちゃんの精神状態が不安定になっていた夏休み明け、マイちゃんが今までになかった『失立』という発作を起こしたときは騒動になりました。
 『失立発作』とは、字の如く、立ったまま意識を失いバターンと倒れてしまう発作です。立ったまま意識を失うので、後頭部を激しく打ち付けてしまったり、前のめりに倒れたときは顔面や前頭部を打ち付けてしまいます。打ち所が悪ければ命に拘わります。
 マイちゃんは、その先生の担当週のときに2度、前と後ろに倒れるこの失立発作を起こしました。後頭部は腫れ上がり、前頭部はしばらく青あざが残りました。
 もちろん病院にも連れて行き、CTやMRIを撮るほどでした。医師もとても心配していました。
 今までに起こしたことがない発作だっただけに、私も心配で担任の先生にどうしてそうなったのかを伺いました。
 すると、その先生の指導法がマイちゃんに合わずにマイちゃんのストレスが溜まっているようだというお話でした。もちろん、じいが亡くなってマイちゃんの精神状態が不安定だったことも、それに拍車を掛けることになっていたと思います。
 その先生は、常に耳の側で「○○さん、〜しないとダメですよ。」「○○さん〜してはダメ。」「○○さん、〜しましょう。」とずっと言い続けていました。
 知的障碍児への指示の出し方は、エッセイの『知的障碍者に対する誤解と対応』にも書きましたが、“短く・ゆっくり・はっきりと”です。
 でも、常に耳の側でしかも大きな声で、ずっとこのように指示されていると、子どもたちはパニックを起こしたり、発作を起こしたりします。
 マイちゃん以外の生徒さんにも、パニックがひどくなったり、それまではしていなかったお漏らしをしてしまう子どもが出ていたそうです。
 
 それまでは私も様子を見ていましたが、マイちゃんに今まではなかった失立発作が出た以上、黙って見過ごすことはできませんでした。
 これはもう、“各教師の指導方法だから”と黙っていることができなくなってしまったのです。まして、そのパニックや発作の原因が分かっているのです。子どもの命に拘わることになった以上、放っておくことはできませんでした。
 他の担任の先生も校長先生にその状況を説明し、何とか対処して下さるように何度も掛け合ってくださっていましたが、未だに何の対処もないということも、私が動かざるを得ない理由の一つでもありました。他の担任の先生が言っても聞いてくださらないのなら、親が言わねばなりません。
 校長先生と何度もお話しをさせて頂きました。私は、「色々な先生が色々な指導法をすることは百も承知しているので、担任を外して欲しいとか、マイちゃんのクラスを変えて欲しいとは言いません。でも、マイちゃんに失立の発作が出た以上、週替わりで回ってくる担当からは外して欲しい。」とお願いしました。
 しかし、校長先生は、「好き嫌いで先生を選んではいけない。」とおっしゃいました。「好き嫌い」ではありません。マイちゃんの命に拘わることです。好き嫌いだけで、私はこんなことを言いに来たりはしません。
 「では、もしマイちゃんが再び失立発作を起こして、怪我や取り返しのつかないことになったとき、学校はどうしてくれるのですか?」と、私が問うと、校長先生は「失立の発作自体がその先生のせいかどうか分からないでしょう。」と言いました。
 (幸いマイちゃんが高等部に上がったとき、その先生は高等部には来られませんでした。すると、それ以降マイちゃんが失立発作を起こすことはありませんでした。後にも先にも、彼女の失立発作はこのときだけだったのです。このことからも、やはりその先生の指導法が原因であったと思わざるを得ません。)
 それで私は、医師に相談しました。すると、医師も「他の担任の先生も証言されているのだから明らかにその先生が原因でしょう。」とおっしゃって、診断書と意見書を書いて下さいました。“マイちやんの失立発作は、その担当教諭が原因である可能性が高く、今後マイちゃんの担当となる教諭には、今まで以上の配慮が必要である。”と明記して下さったそうです。
 この失立発作というのは、てんかん発作と違い、やはりストレスからくることが大きいそうです。
 私は、その医師からの手紙を持って行きましたが、それでも校長先生は、何の対処も対応もして下さいませんでした。その先生には一応の注意はしたそうですが、そのようなことを注意されたと分かったら、校長に告げ口したとマイちゃんに報復がこないか、親としては更に心配になりました。
 
 その先生は、その先生なりに一生懸命子どもたちのできることを増やそうとされての指導だと思います。決して子どもたちを不幸にしようとして行っていることではないと思います。けれど、失立発作が出ている以上、そのまま学校に行かせることは私には無理でした。
 校長先生が何の対処もして下さらない以上、私はそれ以降の残りの数ヶ月の間、その先生の担当がマイちゃんに回ってくる週は、マイちゃんを休ませました。本当は、卒業式まで休学させるつもりだったのですが、他の担任の先生が、「マイちゃんを守ります。」とおっしゃって下さったので、その先生の担当週以外は登校させました。
 
 やっと卒業式を迎えることとなりましたが、高等部でその先生と再び一緒にならないか、私たちの不安はまだ続いていました。
 
更新日時:
2006.04.02 Sun.

中学部卒業
 マイちゃんの中学部卒業の日が来ました。3月の桜が舞う中、彼女の養護学校の卒業式が執り行われました。
 9年前にこの養護学校の小学部に入学して、今日で義務教育が終わります。
 昭和41年に旧文部省より発布された「盲学校、聾学校及び養護学校の高等部の学科を定める省令」により、養護学校にも高等部が設置されることになったお陰で、マイちゃんも義務教育を終えても、まだ3年間この養護学校の高等部に通うことができます。
 高等部になっても、中学部入学のときと同様に、学校や校舎が変わるわけではないので、彼女にとっては卒業といっても一つの通過点のようでもありました。
 
 しかし、私や夫にとってはやはり感慨深いものがありました。 
 小学部入学の際に、学校をどこにしようかと悩み、各学校でお話を聞いてこの養護学校を選び、不安と期待の中でマイちゃんを入学させて早9年。この9年間の日々の彼女の様子を見ていて、やはりここを選んで良かったと改めて思いました。
 中学部3年生では、1人の先生の指導方法と合わず新たな発作も出て、心配の種は尽きませんが、それでも多くのお友達や先生方に支えられ、今日の卒業の日を無事に迎えることができたことは、私たち家族にとってとても嬉しいことでした。
 校長先生から卒業証書を戴く姿には涙が溢れました。ビデオカメラを熱心にまわしている夫の頬にも涙が一筋伝わっていました。
 
 彼女が歩んで来た今日までには、いろいろなことがありました。
 発作の心配もありましたが、初潮も迎え、小さいながらも彼女なりの身体的な成長を見せていました。また、妹や従兄妹が生まれたり、最愛のじいとの別れを経験したことは、彼女を精神面でもひと回りもふた回りも大きくしたと思います。
 そして、9年間の学校生活の中で、それまでできなかったことが、周りの先生方のサポートで一つずつできるようになっていったり、お友達との関わりの中で思いやりや優しさを増していったように思います。
 
 卒業式の後、先生方と写真を撮ったり、お礼を述べたりする時間が設けられていました。そこでは保護者は式中よりもさらに涙、涙でした。
 先生方の中には、転任されたり小学部や中学部に異動される方もいらっしゃるので (この時点で親は、どの先生が転任や異動になるのかは分かりませんが、当の先生は内定を受けているので分かっています)、先生方も涙、涙でした。
 卒業式中は泣くことのなかったマイちゃんも、このときは周りの保護者や先生方の涙につられたのか、ポロポロ涙を流していました。
 
 感謝と涙の卒業式を終えて、4月からは新たに高等部に入学していくマイちゃんに、感慨ひとしおの私たちでした。
 
 
更新日時:
2006.04.04 Tue.

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Last updated: 2006/4/18

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