障碍を持って生まれてきたマイちゃんとのこれまで

COLUMN

天使の足跡
マイちゃんとともに…

中学時代 3
 中学生活も小学時代と校舎が同じということが彼女の緊張を緩和させているのか、小さな発作はあるものの少しずつの成長とも相まってその発作も落ち着きをみせ、マイちゃんらしく過ごしていました。
 1年のときの担任の先生の中には、マイちゃんが大好きなD先生もいらっしゃいました。単に好きというよりははるかに濃厚で、中学部2年ではそのD先生は彼女のクラス担任ではなくなったにも関わらず、しばらく彼女はストーカーのようにD先生を追い掛け回していました。追い掛け回すといっても、D先生のクラスを覗きに行っては先生の姿を見て嬉しそうにドアのガラス越しに見ているだけなのですが、それが授業中などでもちょっと隙があるとそちらに行ってしまうので、クラスの先生方はマイちゃんに隙を与えないように目を見張らせていなければなりませんでした。
 小学部でも、マイちゃんの好きな先生はいました。でも、それは本当に小さな子どもが「パパが好き」というのと同じような感じで、今回ほど“好き好き光線”を出してはいませんでした。
 彼女の心に芽生えた小さな恋心だったのでしょか。
 この頃は身体も女性らしく丸みを帯びてきて、今まで洗濯板のようだった胸も少しずつ膨らみを増して来ていました。身体の成長とともに心もしっかり成長してきていることに、喜びと不安の複雑な心境でした。
 
 ちょうどこの頃、マイちゃんの初潮が来ました。最近は、健常児のお子さんの平均初潮年齢が10歳前後と言われているので、やはりこれも遅い方なのかも知れません。しかも、初潮が来てから次の生理までは2年もなかったのですから、やはり通常とはだいぶ異なります。もうすぐ高校3年生の今でも1〜2ヶ月飛びの生理ですが、医師に相談すると「不順というよりは、まだ定期的に来るほど身体が出来上がっていないということで、定期的に来るまでの準備期間が人よりも長いと考えたほうがよいだろう」とのことでした。
 初潮が来た後に定期的に生理が来るまで、しばらくは不定期になることはよくあります。しかし、半年から1年もする頃には定期的に来るものなのですが、その不定期の期間が長いということでした。
 初潮が来たときは、お赤飯と尾頭付きの鯛で家族でお祝いしましたが、生理が来ないのも親としてはまた不安なものもありますが、来たら来たで心配なことも出てきます。知的障碍者が強姦されたという事件は過去にも大きく取り上げられたことがあり、またニュースなどでも目にするので、知的障碍女児の親は、そんなことにも心配の種が芽生えてしまうのです。
 
 男児の親にとっても、この頃は気掛かりなことが増える時期でもあります。女性に興味を示し始める頃ですから、街中で通りすがりの女性に抱きついたり、じっと胸を見つめてしまうなど、変質者と間違われることがあるからです。
 もちろん全ての障碍男児がそうなるわけではありません。しかし、思春期に女性に興味を示すことは当たり前のことで、ただ障碍児(特に重度障碍児)は人前だからしてはいけないとか、知らない人だから抱きついてはいけないということを理解することが困難です。
 彼らは強姦しようと思って行動してはいません。なぜならその行為自体を知らないことが多いからです。ただ本能的に素敵な女性がいると見てしまうとか、触れたくなるという感情に駆られてそのような行動に出てしまうことがあるのです。もちろん親は日頃から注意しますが、実際にはとっさのことで止めようがなく、結局警察を呼ばれる羽目になったりします。
 
 健常児の親ならやれやれ大きくなったと一息つく頃でも、知的障碍児の親にとっては、成長を喜ぶとともに新たな不安も抱えてしまう彼らの思春期なのです。
 
更新日時:
2006.03.26 Sun.

中学時代 4
 2003年4月マイちゃんが中学部3年になりました。
 彼女の通う養護学校は、1年から2年になる時も、2年から3年になる時も持ち上がりということはなく担任が変わります。全ての担任が変わってしまう時もあれば、一部の先生が入れ替わる時もあります。
 知的障碍児の中には、変化に順応することが困難な子もいます。1年から2年になる時はまだいいのですが、2年から3年の時には変化に順応できない子どものために、できるだけ担任を変えないで欲しいと嘆願しているのですが、学校の体制は未だに変わりません。
 なぜ2年から3年になる時に担任を変えてほしくないのかと言うと、修学旅行があるからです。彼女の養護学校では、毎年5月中旬から6月上旬の間に修学旅行が行われます。4月に新しい先生になって慣れる間もなく、また先生にとってもいくら申し送りがあるにせよ、その担当生徒のことをしっかり把握できていないまま3泊4日もの修学旅行に送り出すことは、親にとっては不安この上ないことです。
 過保護すぎると思われる方もいらっしゃるかも知れませんね。でも、発作のある子どもにとっては、その対処一つで命に関わることもあるのです。単に“かわいいかわいい”で心配しているのではなく、どういうときに発作が起こりやすいか、どのようなことがあるとパニックに陥りやすいか、また発作やパニックが起こったときにはどのように対処しなければならないかということは、何ページかの紙切れの申し送りだけでは伝わることに限界があり、やはりその前年に先生自らが経験してこそ、理解し対応できることだと思うのです。
 マイちゃんも発作がありますが、この年の担任の入れ替わりは大きくなく、2年の時の5人の先生の内、2人の先生が入れ替わっただけでした。それで、私は昨年も担任だった先生にお願いしてマイちゃんを修学旅行に送り出しました。
 
 彼女たちの行き先は、九州の長崎ハウステンボスと九十九島でした。
 数日前までの天気予報では、当日は大雨ということでした。でも、私は全く心配していませんでした。それは、マイちゃんが強力な『晴れ女』で、彼女の何か大きな行事の時には今まで雨が降ったことがなかったからです。
 今回のように雨天予報のときでも雨が遅れて曇りで過ごせたり、予報より早くに雨雲が通り過ぎて晴れたりと、本当に不思議なくらい雨に当たりません。
 通常の日にはもちろん雨の日もありますが、車に乗るまで止んでいたり小雨だったりしたのが、彼女が乗車した途端大雨になったり、また彼女が降車するときにはそれまでの雨が止んでしまったりと、不思議なくらい傘要らずなのです。
 先生方にも「マイちゃんがいるからきっと晴れるわね」と言われるほど、彼女の『晴れ女』ぶりは有名でした。
 だから、今回もきっと晴れるだろうと思っていたら、案の定でした。出発するこちらは曇りで今にも雨が降りそうな天候でしたが、その日の九州、しかもマイちゃんが行く北九州はかんかん照りのお天気でした。南九州は次の雨雲によって雨が降り続いていたのに、北九州は前日までの雨が嘘のように晴れ上がっていたそうです。
 
 私たちは、集合の新幹線の駅まで家族でマイちゃんを送っていきました。私の父母も一緒に行きました。私の父にとっては、マイちゃんの学校行事に参加するのはこれが最後となってしまいました。父はこの前年に大腸癌が発覚し、手術後の抗癌剤投与を受けていたのですが、この後しばらくして、もう歩くことさえ儘ならない状態になり、この年の夏には亡くなってしまったからです。
 
 さて、修学旅行は、長崎のハウステンボスを満喫し、九十九島では初めてのカヤック乗りに挑戦したそうです。 ハウステンボスは以前に行ったことがあったので、大好きなミフィーのぬいぐるみを一番に購入し、抱きながら巡ったそうです。翌日の九十九島のカヤックは初体験で、最初はとても怖がっていたそうですが、慣れてくると自分でも櫂を漕ぎ始めたそうです。
 カヤックなんて無理だろうと思っていたのですが、何でもやらせてみることの大切さを改めて学びました。
 
 たくさんのお土産と思い出を持って元気に帰宅してきたマイちゃんは、この数ヶ月後に起こる最愛のじいとの別れなど想像だにできない笑顔で、修学旅行を無事に終えたのでした。
 
 
更新日時:
2006.03.26 Sun.

中学時代 5 (従兄妹の誕生)
 我が家の家族は、とても仲が良いです。
 私の家と私の両親の家、そして弟の家がそれぞれが歩いて5分以内にあるということも関係していましたが、私たち家族4人と父母と叔母、私の弟夫婦の9人は、特に用事がある日以外は、週末には実家に集まって皆で夕飯を食べ、外へ食事へ行くのも旅行に行くのも行楽に行くのも何処へ行くのも大抵一緒でした。
 弟夫婦は1993年に結婚しましたが、弟のお嫁さんとはマイちゃんの生まれる前からの付き合いだったので、彼女もマイちゃんのことをとてもよく理解してくれて、かわいがってくれます。もちろん悪いことをしたときには叱りますし、良いことをしたときは抱きしめて誉めてもくれます。まるで本当の娘のように関わってくれるので、マイちゃんも弟夫婦が大好きです。
 弟夫婦は、マイちゃんとの関わりをみていても子どもが本当に大好きでした。けれど、まだ彼らには子どもがいませんでした。望んでいても出来なかったのです。赤ちゃんが欲しいと願えば願うほど、皮肉なものでできないものなのでしょうか。
 
 結婚した当初は誰でも経験があると思うのですが、「赤ちゃんはまだ?」と周囲からよく言われます。周囲は“結婚したら次は赤ちゃん”と深い意味もなく、本当に何気なく、きっと挨拶がわりで言っているだけなのでしょう。結婚して1〜2年で子どもを授かったり、子どもを作らないようにしているDINKS夫婦なら、そう言われても大して気にもしないでしょうが、“赤ちゃんが欲しい欲しい”と思いながら何年も出来ない夫婦にとって、この周囲の無責任な言葉は、どれほど当人たちにプレシャーを与え、心を傷つけていることか。
 私もそうでしたから、弟夫婦の気持ちは痛いほどよく分かりました。
 マイちゃんに兄弟姉妹が欲しいと強く願えば願うほど、思いが強ければ強いほど、流産ばかりで悲しい思いをしてきました。
 流産が分かって病院で処置をし、落ち込んだ気持ちで帰宅する途中に、近所の人から「マイちゃんも大きくなったね。早く次の子を作らなあかんよ。一人だったらマイちゃんも寂しいよ。」と言われたことがあります。
 赤ちゃんが欲しい気持ちは人一番あって、なのに流産ばかりで『もう赤ちゃんは出来ないのだろうか』と誰よりも心が傷ついているときに、無責任な言葉を言われ涙をこらえるのに必死だった記憶があります。
 やっと私が周囲のその無責任な言葉から解放されたのは、次女のアヤちゃんを授かったときでした。
 だから私たち家族は、弟夫婦に赤ちゃんのことは言いませんでした。きっと義妹もいろんなところで言われた心無い言葉に傷ついていたはずです。でも私たちが何も言わなくても、私にアヤちゃんができたときは、義妹に相当なプレッシャーを与えていただろうと思います。
 
 マイちゃんとアヤちゃんの面倒もよくみてくれる弟夫婦には、既にお母さんとお父さんになる資質は充分に備わっていました。そして、誰よりも赤ちゃんを望んでいることを知っている私たちは、どうぞ弟夫婦のために赤ちゃんが授かりますようにと、祈るだけでした。
 その祈りが通じたのか、アヤちゃんが生まれてから4年後の2001年、義妹のお腹に待望の小さな命が宿りました。しかも双子とのことでした。弟夫婦の喜びようは口では言い表せないものでした。私たちもとても嬉しかったのを覚えています。まだ赤ちゃんが生まれた訳ではないのに、お祝いのパーティをしたほどですから。
 そして、その年の9月、無事に赤ちゃんが生まれました。双子の内、一人は女の子で一人は男の子でした。
 私の父は、初めての男の子の孫の誕生に大喜びしていました。
 弟夫婦は、この愛しい2人の我が子に『シホ』・『マサシ』と名づけました。
 マイちゃんは、2度目の小さな命の誕生に関わり、嬉しそうに赤ちゃんの頭を撫でていました。
 
 義妹は、出産後の女性の大半がするように、赤ちゃんを連れて里帰りしました。
 私たちは、双子ということもあり、きっと長期里帰りになるだろうと思っていました。
 しかし、予想に反して、義妹は1ヶ月足らずで赤ちゃんとともに帰ってきました。
 義妹の実家には、シーちやんとマーくんの生まれる2ヶ月前に生まれた赤ちゃんとともに妹さんが里帰りしていたので、義妹の家族は、新生児3人の面倒を見なければならずてんやわんやの状態で、義妹もゆっくり産後の休息をとるどころか、動き回らないといけない状況だったそうで、早々に退散してきたそうです。
 それで、私の母は、家が近いということもあり、毎日食事を持って行ったり、帰宅時間の遅い弟の代わりに入浴を手伝ったり、週末には赤ちゃんたちを実家に泊めて弟夫婦を援助していました。
 私たち家族の心配は、双子の育児に義妹がノイローゼ状態にならないようにということだけでした。だから、家族でできることは皆で協力していたのです。
 家族の協力は、弟家族が家を買って引っ越すことになる、シーちゃんとマーくんが3歳のときまで続いていました。
 けれど週末の2人のお泊りは、今も続いています。だから我が家の週末は、マイちゃんとアヤちゃんとシーちゃんとマーくんの賑やかな声に包まれ、実家はさながら託児所状態です。
 
 このお陰で家族の繋がりはさらに強くなり、以前と変わることなく何処に行くのも一緒に行動しています。
 この家族の体系は、人が大好きなマイちゃんにとってもとても幸せな環境です。そして、マイちゃん以外の子どもたちにとっても障碍のあるマイちゃんと当たり前に関わることは、その中で弱い立場の人に対する思いやりや対応の仕方などを自然に学ぶことができる機会となっています。
 口でうるさく言わなくても、実際のマイちゃんとのやりとりの中で、どのようなときにどうすればいいかや障碍があっても一緒という感覚やできないことをできる人がするということを自分たちで習得しているのです。
 このことからも、障碍児・者と実際に関わることの大切さを実感している私たちでした。
 
更新日時:
2006.03.31 Fri.

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Last updated: 2006/4/18

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